円城寺村(読み)えんじようじむら

日本歴史地名大系 「円城寺村」の解説

円城寺村
えんじようじむら

[現在地名]笠松町円城寺、川島かわしま渡町わたりまち河田町こうだまち

栗木くりき村と薬師寺やくしじ(現岐南町)の東に位置し、東は中野なかの村、南は木曾川。同川中洲に枝村の小屋場こやば島・嘉左衛門かざえもん島・河田島(現川島町)がある。「濃州徇行記」に「民居木曾川のりにあり、堤上と堤外と西の村はずれより東の村はずれまで連綿として建ならび大郷なり、本郷は中野村界岐阜御成道の西へ付民戸余程あり、堤より少し隔てり、此村は農商兼たるものなどもありて村立よき処也、(中略)川の辺りに円城寺川並奉行(々脱)垣源兵衛屋敷あり、川並御番処は西の村はずれ、川の辺りにあり、(中略)又此湊に大船九艘、中船十二艘ありて船かせぎをもし渡世とせり」とある。

戦国期、当地には一向宗専福せんぷく寺があり、元亀三年(一五七二)七月一三日、織田信長専福寺に対し一向一揆に荷担しないよう、もし違背すれば成敗する旨を言渡している(「織田信長朱印状」専福寺文書)羽柴秀吉は天正一二年(一五八四)六月に「如前々一切諸役之事」「川面役等之事」「対百姓不謂族申懸事」の三ヵ条からなる禁制(野々垣文書)を円城寺を本拠地とする野々垣源兵衛に下し、同一四年一〇月一八日には専福寺に対し、「円乗寺市場、寺内与相定上者、非分族不可在之、并市日事、五日・十日・十五日・廿日・廿五日・晦日、至其日、郷質・所質一切不可有其煩」という保証を与えた(「池田照政判物」専福寺文書)

円城寺村
えんじようじむら

[現在地名]大田市三瓶町野城さんべちようのじろ

市野原いちのはら村の東に位置し、西流する三瓶川に沿って上流多根たね村。村名は天台宗の古刹円城寺が所在することによると伝える。正保国絵図に村名がみえ、高二二九石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方一九二石余・畑方四二石余、年貢高は米七六石余・銀三四二匁余。家数は本家三九・門屋三〇、人数二五四。文政二年(一八一九)の家数人別牛馬調(野沢家文書)では家数四四・人数一三八、牛三八。当村は池田いけだ口番所の添村や銀山御囲村に指定されていたが(宝暦三年「石見国郡中入用其外取計定書」福田家文書)幕末には当村など銀山から遠隔の村は三久須みくす村などに用木を請負わせ間銀を支払っていた(安政三年「御用木書出帳」松尾家文書)

円城寺村
えんじようじむら

[現在地名]秦荘町円城寺

城安寺じようあんじ村の西に位置する。中世は円城寺領安孫子あびこ郷のうちと推定され、村名はこれに由来するか。建武元年(一三三四)一二月七日の東寺百合文書などによれば、当時「安彦子郷」内に円城寺領があったことがわかる。当地円福えんぷく寺蔵の永正一〇年(一五一三)の絵像裏書に「江州愛智郡安彦子郷」とみえる。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高五五二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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