市原村(読み)いちはらむら

日本歴史地名大系 「市原村」の解説

市原村
いちはらむら

[現在地名]左京区静市しずいち市原町

東から南にかけて幡枝はたえだ、南から西にかけて上賀茂かみがもくもはた(現北区)、北は野中のなかの各村に接する。北より流れ来る鞍馬くらま川と静原川の合流地を中心にその南に開かれた山間集落。市原野・一原・櫟原とも書かれる。

中世には岩倉大雲いわくらだいうん寺領、あるいは主殿寮領で、大雲寺領については応永一六年(一四〇九)六月の実相院文書に、

<資料は省略されています>

とあり、主殿寮領については壬生文書に、

<資料は省略されています>

とみえる。主殿寮領については、更に天文一六年(一五四七)三月二四日の壬生官務中務大輔範秋申状(「賦引付」二)に「右子細者、知行分一原野・野中・二瀬三ケ村事、従往古為朝恩之地帯綸旨・院宣・公方御下知以下証文等、当知行無相違者也」とあり、壬生家は「為朝恩之地」として、市原野を含む主殿寮領の一部を知行していた。


市原村
いちはらむら

[現在地名]甲南町市原

塩野しおの村の東、そま川左岸に位置。集落は杣川から離れた段丘上に立地。往古は櫟原と記したという。延文五年(一三六〇)市原城の六角氏頼と、葛木かずらぎ山の仁木義住が合戦したとされる(甲賀郡志)。慶長五年(一六〇〇)幕府領。元禄郷帳では松平(桜井)領。慶長七年の検地帳(市原共有文書)によれば高二五八石余、うち田二二三石余(永荒七三石余)・一九町余、畑二一石余(永荒一二石余)・三町余、屋敷一二石余・一町余。慶安二年書上では田一四九石余・畑屋敷二九石余・永荒川成七九石余。延宝七年(一六七九)の検地帳(市原共有文書)では高二三四石に減少。


市原村
いちはらむら

[現在地名]篠山市今田町市原

今田村の南方、今田新田の南西に位置する。中ほどを東条とうじよう川が南流、只越ただごえ川・明神みようじん川が合流する。西の播磨鴨川かもがわ(現社町)に通じる坂道は只越といわれ、源義経が小野原おのばらの人家に火を放って三草みくさ(現社町)に至ったとする所伝がある。古代には櫟原いちはら庄、中世には小野原庄市原村などとみえる。なお東条川右岸、おどり山の地蔵菩薩立像は瀬戸せと地蔵ともいわれ、岩盤を船形状に彫窪め、中央に半肉彫されもので、室町期の作とされるが、面相や像容が明瞭に残されている。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「市原村」とみえ、高二一〇石余。


市原村
いちばらむら

[現在地名]友部町上市原かみいちばら中市原なかいちばら下市原しもいちばら

たか峰南麓の山地・台地からなり、涸沼前ひぬままえ川が南北に流れ、結城街道が東西に走る。東は杉崎すぎさき(現東茨城郡内原町)小原おばら村、西は日草場ひくさば(現笠間市)。中世は宍戸氏の支配下にあり、宍戸氏の家臣道川氏が中市原岩尻いわしりに市原城を築いて支配したといわれ、嘉暦三年(一三二八)四月一八日銘の如意輪によいりん寺の鰐口に「宍戸庄市原」とあるのが初見である。文禄元年(一五九二)から佐竹氏領、慶長七年(一六〇二)に秋田氏領となり、同年の御知行之覚(秋田家文書)に村高一〇九三・六八石とある。


市原村
いちわらむら

[現在地名]大江町字市原谷いちわらだに

二箇にか村を南北に分断してほぼ東に入り込む谷の小平地に立地する。奥に進めば市原峠を越えて丹波国何鹿いかるが西方にしがた(現綾部市)に通じる。当村と西方とは古くから婚姻関係などを通じて緊密で、正月には両村から代表を選び餅食い競争をしたと伝える。北方は山地を隔てて桑飼くわがい(現舞鶴市)に接し、南方も山地を境に南有路みなみありじ村と背合せになっている。二箇村の枝郷。

慶長検地郷村帳に二箇村に続けて「二ケ村之内市原村」とみえるが、天保郷帳では村名はみえず二箇村に含まれていると思われる。


市原村
いちはらむら

[現在地名]加美町市原

三谷みだに村の北、杉原すぎはら川西岸のせんヶ峰東麓に位置する。市原谷いちはらたに川が東流する。北西の市原坂を越えると越知おち(現神崎町)を経て但馬国生野いくの(現生野町)に通じる。「いちわら」ともよぶ。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では田方一二三石余・畑方一五五石余、幕府領。延宝五年(一六七七)の検地帳(市原区有文書)によれば高二七九石余、うち池成・永荒・川欠・地無九三石余、小物成は山手銀六一匁・茶役銀一匁余・野藪年貢銀六分・炭竈役銀八匁・鉄砲役銀九匁・床役銀二匁余、しん(現熊野神社)二軒にけん宮、阿弥陀堂があった。


市原村
いちはらむら

[現在地名]尾道市しよう町市原

木梨きなし村の西にあり、山地で囲まれる。中央部を木頃きごろ(現藤井川)の支流が南流し、北部の寺谷てらだに南部と、南の伊予兼いよかねにやや平坦地がある。東側の山裾沿いに石見路(赤名越)が北上し、寺谷の南部で西側へ移り、まきたおの坂道を越えて西北のはた村に至る。中世には木梨庄に属し、木梨杉原氏の勢力下にあり、石見路の道筋として重要視されていた。


市原村
いちはらむら

鎌倉時代末期に作成されたと考えられる久利家系図(久利文書)によれば、久利くり郷地頭七郎祐房から子四郎経房に市原地頭職が分割譲渡され、さらに四郎次郎為房に相伝された。史料の内容については検討を要するが、貞和二年(一三四六)二月二七日の足利直義裁許状(大和密井文書)には一原孫二郎の名がみえ、一原は市原と考えられる。永正一二年(一五一五)四月二六日の大内義興下文写(石見吉川家文書)に「邇摩郡久利郷市原村」とみえ、永正八年京都での合戦において惣領の吉川国経が逃亡したにもかかわらず、それには同調せず戦った恩賞として同村のうち野田主殿允が預所として知行していた四五貫文の地を吉川経典に宛行っている。同所は本来は吉川氏相伝の所領であったが、経典の父経貴のときに召放され、同一二年までは野田主殿允が預かっていたものという(天文一〇年一二月五日「吉川経典譲状并置文写」同文書)


市原村
いちはらむら

[現在地名]北区大沢町市原おおぞうちよういちはら赤松台あかまつだい一―二丁目

岩谷いわたに村の南にある有馬ありま郡の村で、東は上津上こうづかみ村。室町時代初期に上津畑こうづはたから八戸の農家が入植してきたことに始まり、同地の大歳おおとし神社の分霊を勧請して豊歳とよとし神社を祀ったと伝える(神社明細帳)。室町時代中期に入植したという仲井氏の旧居跡を長者屋敷と称している。仲井氏は永正八年(一五一一)豊歳神社の社殿を造営、また上津畑の正権しようごん寺の阿弥陀如来を奉安して阿弥陀堂(如来堂)を字大東おおひがしに建立した。同堂で行われる御当行事は隣村と違って仏式で行われる。慶長国絵図に村名がみえるが、高は岩谷村と合せて一九八石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳も同じで、玄蕃(有馬豊氏)領。


市原村
いちはらむら

[現在地名]上郡町旭日あさひ

黒石くろいし村の東、岩木いわき川源流域の山間に位置する。集落は標高三五〇メートル余の山上にある。江戸時代の領主の変遷は元禄一四年(一七〇一)までは上郡村に、同年以降は小皆坂こかいざか村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田高四五石余・畠高六六石余。宝暦一二年(一七六二)村明細帳(庄家文書)によれば、高一一五石余・反別一一町七反余、家数二五・人数九八、牛四。荒神・山神(現素戔嗚神社)・薬師堂・毘沙門堂がある。小物成は持林役銀一〇七匁余、猟師鉄砲三挺分の銀一一匁余、請山運上銀六匁、ほかに草米・山手米を上納。年貢米は鍛冶かじ村川端へ陸送後、高瀬舟で川下げし赤穂なか(現赤穂市)御蔵へ納入した。


市原村
いちばらむら

[現在地名]洲本市中川原町市原なかがわらちよういちばら

安坂やすさか村の北、三木田みきた村の北西にあり、津名つな郡に属する。三木田村一里松付近で岩屋いわや(現淡路町)への道から分れ、北西方横尾よこお峠に向かう鮎原あいはら(現五色町)への道に沿って集落がある。正保国絵図に村名がみえ、高四六九石余。天保郷帳では高五一七石余。千草組に属した。反別戸数取調書によれば反別五三町七反余、高八一二石余、うち蔵入高一〇石余、八〇二石余が稲田九郎兵衛の給知。家数一〇三・人数四〇〇。明治一〇年(一八七七)ふたいし村と合併、清水しみず村となる。


市原村
いちはらむら

[現在地名]市原市市原

八幡やわた村の南方に位置し、北部を伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。五種類の出土瓦により古代寺院があったと想定され、光善寺こうぜんじ廃寺とする。応永期(一三九四―一四二八)と推定される馬野郡惣勘文(覚園寺文書)にみえる広禅寺はこれを継ぐ寺院であろうか。いちつぼつぼなどの地名があるほか、要谷ゆうげえを含む一帯を中世の城跡とみて市原城跡とし、城主を芦野氏とも(総州久留里軍記)、忍氏ともいい(房総通史)、天文二三年(一五五四)秋北条氏康が同城を攻めたと伝えるが未詳。


市原村
いちばらむら

[現在地名]青垣町市原

南端を佐治さじ(加古川)が流れ北は大箕おおみ(六二六・三メートル)、南は同川を隔てて小倉おぐら村。北東の中佐治なかさじ村と東の佐治村の間を岩本いわもと、岩本以西を市原とよぶ。「氷上郡志」は岩本を市原の枝村とする。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高二八一石余・畠高三八石余、林少しあり、日損所。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領、元禄八年(一六九五)旗本市岡と同能勢の相給となる(「寛政重修諸家譜」など)


市原村
いちはらむら

[現在地名]武豊町市原

東は富貴ふき村、北は東大高ひがしおおだか村、南は布土ふつと(現美浜町)に接している。中世末、富貴城下の一部をなしていた。

「寛文覚書」によると概高二一二石余、田一五町七反九畝余・畑一町八反四畝余、新田一石余、家数四五、人数一九四。「徇行記」は「東浦海道ヨリ百五十六町モ入コメリ、村落二区ニ分ル東ノ里、西ノ里ト云、支邑ヲ新田郷ト云、(中略)市原村本郷ハ村立ヨキ所ナリ、高ニ准シテ戸口多ク佃力足レリ、此村ハ山間ノ所故ニ農事ノ外余業ハナシ、(中略)此村ヨリモ農隙ニハ黒鍬カセキニ他方ヘ出ルナリ」と記している。


市原村
いちばらむら

[現在地名]村岡町市原

耀山かかやま村の南にある、村域は北流する湯舟ゆぶね川の両岸に展開し、集落はその右岸に形成される。山陰道が通る。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「市はら村」とあり、当地には屋すゆき殿・四郎左衛門殿ほかが住んでいた。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高一六九石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。天保郷帳では高二一四石余。湯舟川を挟み集落の対岸西方、字豊田とよだ(古く豊台といった)等余とよ神社を祀る。


市原村
いちはらむら

[現在地名]瑞浪市土岐町ときちよう 市原

土岐川東岸にあり、南を北西流する小里おり川が土岐川に注ぐ。小里川対岸は猿子さるこ村。土岐川対岸の神篦こうの村枝郷清水しみず村から元禄(一六八八―一七〇四)頃に分村したとされるが、郷帳類ではいずれも神篦村として一括されている。岩村藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳によると田高二六二石余・一八町九反余、畑高六八石余・七町四反余、新田として田高二三石余・一町八反余、畑高一四石余・一町九反余、家数六一、男一二〇・女一二七、馬八。


市原村
いちはらむら

[現在地名]益田市市原町

高津川支流の白上しらかみ川下流に位置し、東は五段田ごたんだ村、北東は高津村。地名のいわれは市之原いちのはらともいい、市が立ったことに由来するという(石見八重葎)。江戸時代の支配の変遷は高津村と同じ。元和三年(一六一七)の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に村名がみえ、高二五〇石余。古高二六七石余で、寛永一四年(一六三七)の検地高三二七石余(万手鑑)。正保国絵図では高二六七石余、柴草山有と注記される。宝永(一七〇四―一一)頃、高津村の沖田おきた灌漑用水は当村から引いていたが、その間の一里ばかりの曲折した水路は度々破壊された。


市原村
いちはらむら

[現在地名]西脇市市原町

西田井にしだい村の西に位置し、村の東を杉原すぎはら川が流れる。慶長国絵図に村名がみえる。江戸期の領主の変遷は西田井村に同じ。正保郷帳では田方一二六石余・畑方一〇石余、「山役有」と注記される。元禄郷帳には野中のなかと肩書されて村名がみえる。天保郷帳では高一二七石余。明治四年(一八七一)の戸数四二(「村々高并戸数控帳」宮崎家文書)。慶応四年(一八六八)の多可郡一揆では杉原谷筋を南下した一揆勢は当村庄屋与三兵衛・六兵衛宅を襲った(「多可郡百姓一揆暴動始末略誌」小牧家文書)


市原村
いちはらむら

[現在地名]吉野谷村市原

佐良さら村の南、北流する手取川右岸に位置する。集落は同川と北西流する支流瀬波せなみ川の合流点南方の河岸段丘上にある。仮名付帳は「いちのはら」と訓ずる。慶長四年(一五九九)の前田利家知行宛行状(県立歴史博物館蔵)市ノ原村とみえ、知行高一三五俵。正保郷帳では高一四九石余、畑方九町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(市原区有文書)の高一五〇石、免二ツ五歩、小物成は山役二九匁・川役七匁・中折紙一五〇束。寛文年間の百姓数二八(高免付給人帳)。天保五年(一八三四)作成の上河内組村々巨細書(加越能文庫)によれば、享保一九年(一七三四)二石、文化元年(一八〇四)一石の手上高が加えられ、田高一五石余・畑高一三七石余、小物成として定御役大幅中折一五〇束、家数五六・人数二六四、牝牛二九、板橋一・百姓持山一があり、農業のほか蚕・日雇賃取・駄賃持・中折紙漉が記される。


市原村
いちばるむら

[現在地名]北茂安町大字白壁しらかべ字市原

石貝いしがい村の南、千栗土居ちりくどい内の低地に位置する。土居の外側はふる(筑後川の旧河道)である。正保絵図に村名がみえる。佐賀藩の藩政期には地米(年貢)は、貞享四年(一六八七)改の郷村帳では三四八石余、蔵入地と配分地とがほぼ半ばしていた。


市原村
いちはらむら

[現在地名]富山村市原

河内こうち村の北方、天竜てんりゆう川に沿う。「熊谷家伝記」によると、正平元年(一三四六)紀州浪人の田辺国量が多田氏の婿となって開発し、のち大谷おおたにを分郷するにあたって市原と称したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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