常福寺跡(読み)じようふくじあと

日本歴史地名大系 「常福寺跡」の解説

常福寺跡
じようふくじあと

[現在地名]大町市大字社 山下 木舟

大峰おおみねから流下した鳥屋とや沢がもたらした小扇状地にあり、現木舟きぶね集落の北部に位置する。寺跡の地型もあり、寺屋敷てらやしき寺浦てらうら・くねうちなどの地名が残っている。

常福寺の名は、天正一〇年(一五八二)三月一八日に比叡ひえい山において僧祐舜が書写した旨を記してある十行出仮(滋賀県叡山文庫蔵)の奥書に、「安曇郡仁科盛福寺」とあり、文字は異なるが常福寺(浄福寺とも)相違なく、これを文献上の初見とし、寺の存在は明らかであり、また比叡山の関係から天台宗の寺と思われる。

文化一二年(一八一五)の信濃国安曇郡仁科木船村常福寺縁起写(大日向正門氏蔵)によれば、この寺はもと清水せいすい山常福寺といい、寛文五年(一六六五)北安曇きたあずみ池田いけだ町の浄土宗聖光せいこう浄念じようねん寺の末寺となり、西福さいふく寺と称したが、元禄年間(一六八八―一七〇四)に再び常福寺を称するようになったと伝える。


常福寺跡
じようふくじあと

[現在地名]三次市十日市町

町の東端馬洗ばせん川南岸近くにあり、中世ぬま城主三吉某の家臣屋葺左衛門の建立したと伝える禅宗寺院跡。「芸藩通志」に載るはら村の絵図では、常福寺跡のすぐ近くに「屋葺左衛門宅址」を記す。同書は常福寺について「小堂を遺す、本尊小記あり、いはく沼城主の臣屋葺左衛門尉藤原高時、天文十七年戊申六月二十八日再願すと、後僧万実上里村寺戸に移す、浄福寺是なり」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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