常福寺(読み)じょうふくじ

精選版 日本国語大辞典 「常福寺」の意味・読み・例文・類語

じょうふく‐じ ジャウフク‥【常福寺】

茨城県那珂市瓜連にある浄土宗の寺。山号は草地山。院号は蓮華(花)院。延元年間(一三三六‐四〇)成阿が創建。のち後花園天皇のときに勅願所となった。関東十八檀林の一つ。常陸浄土宗総本山とよばれた。

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デジタル大辞泉 「常福寺」の意味・読み・例文・類語

じょうふく‐じ〔ジヤウフク‐〕【常福寺】

茨城県那珂なか市にある浄土宗の寺。山号は草地山。開創は延元年間(1336~1340)、開基は佐竹義敦、開山は成阿了実。関東十八檀林の一。

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日本歴史地名大系 「常福寺」の解説

常福寺
じようふくじ

[現在地名]池田市神田三丁目

高野山真言宗。清光山と号し、本尊は千手観音。慶長一六年(一六一一)の奥書をもつ清光山常福寺縁起(寺蔵)によると、天平三年(七三一)の開創で、行基が自作の千手観音を安置したという。当寺二世の海然大徳は真言密教を極め、種々の法験を示したといい、寺伝によるとその法験によって天元二年(九七九)現在の八坂やさか神社の祭神(縁起は牛頭天王とする)が降臨したという。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]上野市古郡 北川

北に山を背負う。真言宗豊山派で本尊は木造五大明王像(五躯、国指定重要文化財)おお(木津川)がかつて当寺下辺りで西に湾曲流していたと考えられ、「伊水温故」は当寺山号の江寄山を「昔ハ河水ノ入江寺前ニ有、依テ山号トス」という。

嘉吉元年(一四四一)の興福寺官務牒疏(内閣文庫蔵)の「伊賀国六箇所」に「常福寺 同古郡 僧房十八宇 交衆十人 聖武帝勅願 徳道上人開基、本尊五大明王、号江寄山、大同二年願安大師中興也」とあり興福寺末寺であった。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]いわき市平赤井 赤井岳

閼伽井あかい(赤井岳とも、六〇五・一メートル)山頂の東側にあり、樹齢数百年を経た杉や檜の巨木に囲まれる。水晶山と号し、真言宗智山派別格本山で、本尊薬師如来。赤井岳薬師は磐城三薬師の一つで、竜灯伝説がある。寺伝によれば、天平六年(七三四)大和国鷲峰じゆぶ山の僧源観が薬師如来を護持して入山し、のち大同元年(八〇六)徳一により現在地に移されたと伝える。「磐城風土記」に閼伽井経塚峠として「平城の西北十五里にあり、磐城磐前二郡に跨る。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]瓜連町瓜連

入門前いりもんまえ瓜連城跡の一角にあり、境内には杉の巨木が茂る。草地山蓮花院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来

縁起では延元年中(一三三六―四〇)成阿了実の開山という。太田おおた(現常陸太田市)城主佐竹義敦は寺地および仏供料を寄付して祈願所とした。嘉慶二年(一三八八)殿堂僧坊を残らず焼亡、応永年中(一三九四―一四二八)今の瓜連城跡の地へ再興したという。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]日南町多里

多里たり宿筋の南、東流する灰谷はいだに川右岸の山際に建つ。中宝山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来(明治二年まで十一面観音)。永禄二年(一五五九)備後徳雲とくうん(現広島県東城町)五世木中圭抱が開山となり、開基の亀尾山かめおやま城主宮盛祐が父盛忠の追福のため父の持仏十一面観音を本尊として創建したという(日南町誌)。のち焼失したが、宮氏の家臣増原清定が再建、当寺第二開基となったとされる。藩政期には日野郡内の曹洞宗布教に最も活躍した。元文元年(一七三六)大庄屋古都源八は山城萬福まんぷく(現京都府宇治市)の鉄眼版一切経全巻を購入、境内に貫華蔵を建てて納めた。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]美里町広木

小山こやま(身馴川)の南東岸に位置し、中世の鎌倉街道上道が北側を走る。広木山龍花院池の坊と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王。寺伝では草創は天徳年間(九五七―九六一)で、開山は空興、中興は元暁という。天正九年(一五八一)三月一一日の北条氏邦印判状写(武州文書)によると、「池坊」に寺領が寄進されているが、これは当寺に対してのものであった。元和四―五年(一六一八―一九)の小池坊秀算と智積院日誉の書状(常福寺文書)に、山城醍醐寺三宝さんぼう院義演の裁決によって当寺末寺の秩父法養ほうよう(現両神村)の独立昇格を認めないとしたうえで、同寺に常福寺二代目が隠居していたとあることから、当寺もこれをあまりさかのぼらない頃に、醍醐法流が入って中興されたものと思われる。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]上市町南町

上市街区の中心部に位置する。松尾山と号し、本尊阿弥陀如来。単立寺院(もと真宗大谷派)。上市の発祥と深く結び付く寺である。大永年中(一五二一―二八)松尾左京進光重が本願寺九世実如に帰依し、法名浄賢を賜り、一宇を建て道場としたことに始まるという。また一説には親鸞の弟子二十四哲の一人真仏坊の開基にかかわるともいわれる。真仏坊は北国布教に力を注ぎ、加賀富樫氏の外護を得て高尾たこう(現石川県金沢市)専証せんしよう寺を建てたと伝える。七世光義の代に蓮如に帰依し、本願寺派に転じ常福寺の寺号を賜ったため富樫氏の怒りをかい、今の地に逃れ井見いみ庄の土肥美作守を頼み一寺を建立した。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]白山町八対野 別所

伊賀より越えてくる道沿いにある。雨宝山と号し、天台真盛宗。本尊千手観音立像は檜材一木造で、平安初期の作。国指定重要文化財。寺の縁起によれば弘仁五年(八一四)空海が神宮へ参詣の折に当地に勝地を卜して草堂を創建したという。天正年間(一五七三―九二)の兵乱によって焼失し、本尊は上野かみの成願じようがん寺へ移した。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]牛津町大字上砥川字谷

くう山の南麓にある。広厳山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は薬師如来。

奥の院に弘法大師を祀り、元来は真言宗で、平安時代の創建と考えられている。江戸時代初期、僧古月印が再興、現宗派に改めたという。木造薬師如来坐像、木造帝釈天立像の二体は、平安朝中期の製作と考えられ、仏師・発願者・寄進者は不明であるが、現在両像とも国指定重要文化財。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]大府市吉田町 北向

万年山と号し曹洞宗。本尊は千手観音。建久年間(一一九〇―九九)の創建。開祖は養泉元育。平家滅亡後、藤原景清が伊勢よりこの地にきて、芦沢の井あしざわのい付近(寺より西へ三丁)に浅羽八太夫の援助により草庵を結び、日頃信仰する観音菩薩を念じ、平家一門の冥福を祈願したところ、ある夜霊夢によって観音経を口授したと伝えられる。

常福寺
じようふくじ

[現在地名]川之江市川滝町下山

椿つばき堂として著名である。高野山真言宗。四国八十八ヵ所の番外札所。寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡下山村明細帳に「境内東西二拾間南北拾七間 常福寺、院号不動院、山号邦治山、右宮梁七間半、本尊薬師如来」と記す。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「常福寺」の意味・わかりやすい解説

常福寺
じょうふくじ

茨城県那珂(なか)市瓜連(うりづら)にある浄土宗の寺。草地山(そうちさん)蓮華院(れんげいん)と号する。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。太田城の城主佐竹義敦(よしあつ)が寺地などを寄進し了実(りょうじつ)が創建した。1452年(享徳1)後花園(ごはなぞの)天皇の勅願所となり、1602年(慶長7)に徳川家康から100石の朱印をもらって経済的基盤を固め、常陸(ひたち)浄土宗の本寺として発展、関東十八檀林の一つとなって、教学・宗政の中心となった。以来、水戸家の菩提(ぼだい)所として栄えたが、1907年(明治40)の雷火で焼失し、1965年(昭和40)現状となる。国宝の紙本着色『拾遺古徳伝(しゅういことくでん)』9巻、国重要文化財の絹本着色法然上人(ほうねんしょうにん)像1幅などのほか、貴重な古文書を多数所蔵している。

[石上善應]

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