十日市町(読み)とおかいちまち

日本歴史地名大系 「十日市町」の解説

十日市町
とおかいちまち

[現在地名]三次市十日市町

近世、三次三ヵ町あるいは三次町と総称された町人街の一つで、三次三ヵ町のうち五日市いつかいち町とうち町は上里あがり村の村域に含まれたが、十日市町は馬洗ばせん川を隔てた南岸はら村の村域であった。原村のうち地方を原地はらじ村、町方を原町組と書くこともある。十日市町は中世の市に由来し、三次町の「国郡志下調書出帳」はその成立について「五日市町ト同時ニ相定マリ候ト申一説モアリ、又ハ以前畠敷村ニ御在城之時定マリ候ト申一説モ有之候、不申聢トハ相知レ」と記す。

馬洗川の自然堤防上に位置する十日市町は、前記書出帳に載る「享保三戌年下調ヘ旧記之事」によると、享保三年(一七一八)には町の長さ八丁・竈数三一二(本家一七〇・借家一四二)・人数一千五三人。


十日市町
とおかいちちよう

[現在地名]鈴鹿市神戸かんべ二丁目

かや町の南にあり、市場としての成立は不明であるが、神戸信孝が天正三年(一五七五)十日市に楽市と伝馬の制を定め、さらに天正一四年には羽柴下総介(滝川雄利)により、伝馬・駄賃馬の制度が整えられてから(高野家文書)、江戸時代を通じて神戸宿の中心となった。享保一七年(一七三二)町の長さ三町三二間、戸数一〇五(九皐抄)、文政八年(一八二五)の戸数九六(高野家家譜)。文久三年(一八六三)の神戸十日市町の宗門改帳(伊藤捷氏蔵)によると、人数二七六、家数九七、うち九三軒役家・三軒無役(高野彦三郎・御本陣栄太郎・名主一人)・一軒仮橋道とある。


十日市町
とおかいちちよう

[現在地名]中区十日市町一丁目

雲石路沿いの西引御堂にしひきみどう町の南に続く両側町で、東は横町左官さかん町に、西は広瀬ひろせ村に接し、南は街道沿いに猫屋ねこや町に続く。広瀬組に属した。町名は「知新集」に「むかしハ川上の村里より莚ござ竹の皮竹かごあるハ青ものやうの品々をこの所にもち出、月ことに十日の市をなしけるより、おのつから町の名となりぬ」とその起りを記している。高田郡吉田よしだ(現吉田町)十日市場を移したものといわれ、太田おおた川上流の沼田ぬまた郡内の農村の莚などの加工品や青物類が、その水運を利用してここに集荷され、市が開かれたもので、古市ふるいち(現安佐南区)より西光さいこう寺と境内社のえびす社が西引御堂町に移されたのも、市場の繁栄のゆえである(新修広島市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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