幌別村(読み)ほろべつむら

日本歴史地名大系 「幌別村」の解説

幌別村
ほろべつむら

[現在地名]登別千歳町ちとせちよう来馬町らいばちよう川上町かわかみちよう富岸町とんけしちよう鉱山町こうざんちよう・幌別町・青葉町あおばちよう若山町わかやまちよう大和町やまとちよう緑町みどりちよう桜木町さくらぎちよう新川町しんかわちよう片倉町かたくらちよう中央町ちゆうおうちよう富士町ふじちよう柏木町かしわぎちよう常盤町ときわちよう幸町さいわいちよう新栄町しんえいちよう

明治初年(同二年八月から同六年の間)から大正八年(一九一九)三月までの村。幌別郡の中央に位置し、南は太平洋に臨み、北は来馬山(一〇四〇・一メートル)などがそびえる山岳地帯。東から来馬川・幌別川・富岸川が南流する。近世ホロベツとよばれ、ホロベツ場所の中心地。明治三年(一八七〇)・同四年に仙台藩白石領の片倉邦憲の家臣らの入植があり、土地(一戸五千坪)の割渡しがあった。来馬地区に本沢直養ほか一四戸、富岸地区に明珍清太夫ほか二戸、幌別地区に斎藤良知ほか二六戸が入植して本格的な開拓が始まった(登別町史)。同三年この地を通過した出羽米沢藩士の宮島幹は、「北行日記」同年九月一六日条に「当所片倉小十郎支配地ニシテ、当春ヨリ老若男女合セテ八十人程移住ノ由、日ニ米五合ツヽ片倉ヨリ救米ヲ遣ハシ、其他ハ自分働キヲ以テ取続クトノ事ナリ、(中略)当所ハ鮭ノ猟三百石目、其他鱒・昆布・鯡少々猟アル由ナリ、未タ開拓モ不出来今頻リニ小屋懸等ノ手配ノ由ナリ、此末暮方至テ困苦スルトノ事ナリ、支配内土人三百人程アリ、本陣近辺土人小屋七、八十軒アリ」と記している。


幌別村
ほろべつむら

[現在地名]浦河郡浦河町字白泉しろいずみ・字東幌別ひがしほろべつ・字西幌別にしほろべつ・字杵臼きねうすなど

明治一五年(一八八二)から同三五年までの村。明治一五年富菜とめな村・塘沸とうふつ村の一部(各村南部)をもって成立。浦河郡の南部、日高幌別ひだかほろべつ川の下流域に位置し、西はあか(フレベツ川)をもって後鞆しりへと村に、東は鵜苫うとま(ウトムアンベツ川)をもって様似さまに郡鵜苫村(現様似町)に、北は西舎にしちや村・杵臼村に接し、南は太平洋に面する(「状況報文」など)


幌別村
ほろべつむら

大正八年(一九一九)三月から昭和二六年(一九五一)四月までの幌別郡の村。大正八年四月一日に幌別村・登別村鷲別わしべつ村が合併、二級町村幌別村として成立、旧村名を継承して三大字を編成。同八年に幌別信用組合設立(登別町史)。昭和九年大字改正地番整理により字本町ほんちようなど一五字を編成(北海道市町村行政区画)。同一〇年北海道大学附属病院登別分院が開設(登別町史)。同年の職業別世帯数は農業三〇五・水産業二五〇・鉱業一・工業一五・商業二二五・家事使用人三〇五・その他有業二一七・無職二〇(前掲行政区画)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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