平塚郷(読み)ひらづかごう

日本歴史地名大系 「平塚郷」の解説

平塚郷
ひらづかごう

新田につた庄内の郷。上下二郷からなる。仁安三年(一一六八)六月二〇日に、新田義重がらいわう御前を未来領主に定めて妻(らいわう母)に譲った六郷のなかに、上平塚・下平塚がみえ(「新田義重譲状」長楽寺文書)。らいわう御前は長じて義季を名乗り世良田家を興し、平塚郷は代々同家に相伝された。元弘三年(一三三三)五月八日早朝、新田義貞生品いくしな神社(現新田郡新田町)社前に討幕の兵を挙げたが、同日北条高時はその報復措置として平塚郷を世良田氏から没収し長楽ちようらく(現同郡尾島町)に寄進した(正慶二年五月八日「関東御教書」同文書)。鎌倉幕府滅亡後、再び世良田家の江田行義の所領に帰し、元弘三年七月二〇日に郷内の二〇貫文の地を長楽寺に寄進している(「江田行義寄進状」同文書)。新田氏の滅亡後も、足利尊氏が安堵しており(建武五年九月六日「足利尊氏寄進状」同文書)新田岩松氏の領域支配が進むなかで、平塚郷地頭職は一円寺領として長楽寺に相伝された(年月日未詳「新田庄知行分目録」正木文書など)

平塚郷
ひらつかごう

戦国時代の北条氏所領役帳には「平塚本郷」「平塚内田端」「平塚内西原」「平塚之内中里」とあるから、当郷は本郷(のちの上中里村)田端たばた西ヶ原にしがはら中里なかざとの四ヵ村から構成されていたことがわかる。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した豊島清元の弟として「平塚入道」の存在が知られ(桓武平氏諸流系図)、その頃に豊島氏の一族が当郷に本拠を置き名字の地としていたとみられる。平塚入道の後も豊島氏庶家平塚氏の所領として続いたようで、室町時代後期の年月日欠武蔵国旦那書立写(熊野那智大社文書)に豊島氏庶家として「平つかふんこ殿」とみえ、さらにその一族が「同在名をく殿」とあって隣接する小具おぐ(現荒川区)に進出していたことも知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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