日本歴史地名大系 「平磯村」の解説 平磯村ひらいそむら 茨城県:那珂湊市平磯村[現在地名]那珂湊市平磯町・磯崎(いそざき)町南西は湊(みなと)村、東は海。「新編常陸国誌」に「此地三面ニ丘陵ヲ負ヒ、東方一帯ノ平地ニ、民居ヲナセル故ニ、平磯ノ名アリ」と記す。平磯から磯崎の海岸は岩礁地帯で、平城宮出土木簡に「常陸国那賀郡酒烈埼所生若海藻」とあり、天平一八年(七四六)にワカメが奈良の都へ貢進されている。酒烈埼は式内社の「酒烈礒前薬師菩薩神社」と関連し、これを「文徳実録」斉衡三年(八五六)一二月条に「常陸国上言、鹿嶋郡大洗磯前、有神新降」とある記事と併せ考えると、大洗磯前(おおあらいいそざき)(現東茨城郡大洗町)と対応する酒烈磯前(さかつらいそざき)の古代地名があって、磯崎はその遺称といえよう。 平磯村ひらいそむら 宮城県:本吉郡本吉町平磯村[現在地名]本吉町 小金沢(こがねさわ)・高(たか)・大朴木(おおぼおき)・高瀬(たかせ)ヶ森(もり)・谷地(やち)・大森(おおもり)・府中(ふちゆう)・前浜(まえはま)・天(あま)ヶ沢(さわ)・猿内(さるうち)・山谷(やまや)・田(た)ノ沢(さわ)・日門(ひかど)・赤牛(あかうし)南は太平洋に面し、西は津谷(つや)村、北は松崎(まつざき)村(現気仙沼市)、東は岩尻(いわじり)村に接する。かつては岩尻村大谷(おおや)本郷のうちであったが、寛永一八年(一六四一)の領内総検地に際し分村独立したという(安永風土記)。同三年の大町駿河宛の石母田大膳等の書状(石母田家文書)によれば、山岡志摩の知行地が不足の場合、平磯村のうちから割渡すよう指示している。正保郷帳に田二〇貫二六二文・畑一四貫九九文とあり、ほかに同所新田二貫七三三文がある。「安永風土記」によれば田二二貫一二三文・畑二二貫八六四文(うち茶畑五文)で、蔵入は二二貫二一三文、給所は二二貫七七四文、ほかに海上高四貫一四五文がある。 平磯村ひらいそむら 千葉県:安房郡千倉町平磯村[現在地名]千倉町平磯川口(かわぐち)村の南に位置し、東は海に面する。南は千田(せんだ)村。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高一九四石余、うち田方一八三石余。里見氏給人領。正保郷帳では田高一七三石余・畑高六九石余、旗本田中領(寛永一〇年から)。以後元文期(一七三六―四一)までの領主の変遷は南朝夷(みなみあさい)村に同じ。寛政―享和(一七八九―一八〇四)頃は旗本根岸領(「伊能忠敬測量日記」など)。天保一三年(一八四二)武蔵忍藩領となり(同一四年忍藩領郷村高帳)、以後は南朝夷村と同様の変遷をたどる。元禄一六年(一七〇三)一一月の地震・津波で地形が変わり、千田村との海境が不分明になって争論が起こったが、近隣村々の扱で内済し、連判証文を作成して落着した(山口家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by