平等村(読み)たいらむら

日本歴史地名大系 「平等村」の解説

平等村
たいらむら

[現在地名]織田町平等

織田村の南にあり、北・西・南は山地で、東は下河原しもがわら村。「平楽村」(劔神社文書)とも記される。明応二年(一四九三)七月八日付景親寄進(同文書)に「御神領平等村」とみえる。享禄元年(一五二八)一一月二八日付織田寺々庫収納田数帳(同文書)に「織田大明神社納分 米方」として「参拾壱石壱斗四合 平等修理日御供分地下引物引定」、また「平等不動堂金之御前散在之地被仰付候分」として一七筆六・四九石を記し、中世つるぎ大明神領に含まれていた。天正四年(一五七六)九月二一日付平等村惣代申状(同文書)にも「劔大明神領平等村末社領田畠山林等之事」とみえ、村内に大明神領があったが、翌年柴田勝家の検地後改めて大明神領の寄進が行われ、同年四月五日付寄進地目録(同文書)からは当村の名は消える。


平等村
だいらむら

[現在地名]婦中町平等

下条げじよう川の上流渓谷間に盆地状に広がり、北は射水いみず郡、西は礪波となみ郡。地名の由来は村の周辺が広い平地であることによるとする説と、開拓当初開拓者が荒野を平等に分割したことによるとする両説がある(婦負郡志)。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高六石余。享保六年(一七二一)の高一九石(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高四二石余・定免四ツ、新田高九石余・平均免八歩五厘余、小物成は銀納畑六二二歩・代銀七匁四分余・山役二七〇匁三分七厘(高物成品々手鏡)。水請高一〇石の赤尾堤、一〇石の二又堤、一〇石余の田手堤、一〇石の大赤尾堤がある(「富山藩高物成帳」斎藤家文書)


平等村
だいらむら

[現在地名]金沢市平等本町だいらほんまち

炭釜すみかま村の北東に位置。北は小豆沢あずきざわ村。「たいら」ともいう。天文六年(一五三七)七月二日坂本さかもと(現滋賀県大津市)の樹下修理大夫の依頼を受けて、同月六日本願寺証如が知行回復を申付けた近江日吉社領四ヵ所の内に「平」が含まれる(賀州本家領謂付日記)正保郷帳によれば高九〇石余、田方二町六反余・畑方三町三反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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