日本大百科全書(ニッポニカ) 「広瀬元恭」の意味・わかりやすい解説
広瀬元恭
ひろせげんきょう
(1821―1870)
幕末の蘭学者(らんがくしゃ)。名は龔(きょう)、字(あざな)は礼卿、号は藤圃、天目山人、通称は元恭。甲斐(かい)国(山梨県)藤田(とうだ)村(現、南アルプス市)の医家に生まれる。15歳のとき江戸に出て、坪井信道(しんどう)の塾日習堂で蘭学を学び、塾頭も務めた。さらに一時緒方洪庵(おがたこうあん)の塾にも入ったが、まもなく京都で時習堂を開き、医業と蘭学を教授した。時習堂では、田中久重(ひさしげ)、佐野常民(つねたみ)、陸奥宗光(むつむねみつ)などが学んでいる。のちに津藩医員に招かれ、兵書などを訳し、藩主に献じた。1865年(慶応1)、津藩主が京都守護と八幡山崎に砲塁築造を命じられたとき、勝麟太郎(りんたろう)(勝海舟(かいしゅう))とともにその構築にあたった。維新後、京都の軍病院の院長に任ぜられている。訳書『理学提要』(1856)は自然科学の入門書として幕末期にもっともまとまったものであった。ほかに医書、兵書などの訳述書が多い。
[菊池俊彦]
『三枝博音編『日本科学古典全書 第六巻』(1942/復刻版・1978・朝日新聞社)』▽『『富士川游著作集7 皇国医人伝』(1980・思文閣出版)』