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広瀬元恭 ひろせげんきょう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

広瀬元恭
ひろせげんきょう

[生]文政4(1821).甲斐
[没]明治3(1870).10.17. 京都
幕末から明治にかけての蘭方医,蘭学者。字は礼卿。号が藤圃または天目山人。甲州の医家に生れ,15歳で江戸に出て坪井誠軒について蘭方を学んだ。 10年後京都で塾を開き,蘭学を講じ,診療を行なって盛業をきわめた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

広瀬元恭 ひろせ-げんきょう

1821-1870 幕末の医師,蘭学者。
文政4年3月生まれ。坪井信道(しんどう)の塾でまなぶ。京都で医業のかたわら私塾時習堂をひらき,医学,兵学などを講義。伊勢(いせ)津藩の医員をつとめ,明治元年官軍病院初代院長となる。「理学提要」「人身究理」などの訳書を刊行し,西洋科学の紹介につとめた。明治3年10月27日死去。50歳。甲斐(かい)(山梨県)出身。名は龔(きょう)。字(あざな)は礼卿。号は藤圃(とうほ),天目山人。

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大辞林 第三版の解説

ひろせげんきょう【広瀬元恭】

1821~1870) 江戸末期の医師・蘭学者。甲斐の人。京都で私塾時習堂を開く。津藩藩医。京都官軍病院長。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

広瀬元恭
ひろせげんきょう
(1821―1870)

幕末の蘭学(らんがく)者。名は(きょう)、字(あざな)は礼卿、号は藤圃、天目山人、通称は元恭。甲斐(かい)国(山梨県)藤田(とうだ)村(現、南アルプス市)の医家に生まれる。15歳のとき江戸に出て、坪井信道(しんどう)の塾日習堂で蘭学を学び、塾頭も務めた。さらに一時緒方洪庵(おがたこうあん)の塾にも入ったが、まもなく京都で時習堂を開き、医業と蘭学を教授した。時習堂では、田中久重(ひさしげ)、佐野常民(つねたみ)、陸奥宗光(むつむねみつ)などが学んでいる。のちに津藩医員に招かれ、兵書などを訳し、藩主に献じた。1865年(慶応1)、津藩主が京都守護と八幡山崎に砲塁築造を命じられたとき、勝麟太郎(りんたろう)(海舟(かいしゅう))とともにその構築にあたった。維新後、京都の軍病院の院長に任ぜられている。訳書『理学提要』(1856)は自然科学の入門書として幕末期にもっともまとまったものであった。ほかに医書、兵書などの訳述書が多い。[菊池俊彦]
『三枝博音編『日本科学古典全書 第六巻』(1942/復刻版・1978・朝日新聞社) ▽『富士川游著作集7 皇国医人伝』(1980・思文閣出版)』

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