田中久重(読み)タナカヒサシゲ

デジタル大辞泉 「田中久重」の意味・読み・例文・類語

たなか‐ひさしげ【田中久重】

[1799~1881]幕末・明治初期の技術者久留米の人。からくり人形製作してからくり儀右衛門とよばれた。万年時計や日本最初の機関車模型を製作。明治8年(1875)日本最初の民間機械工場を作り、今日の東芝基礎を築いた。

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精選版 日本国語大辞典 「田中久重」の意味・読み・例文・類語

たなか‐ひさしげ【田中久重】

  1. 幕末・明治初期の発明家実業家筑後国福岡県)久留米生まれ。巧妙なからくり人形を作ったことから「からくり儀右衛門」の異名をとった。のち鼠灯、無尽灯、万年時計(自鳴鐘)などを考案。さらに、日本最初の模型機関車の製作・運転に成功。後の芝浦製作所の前身をつくった。寛政一一~明治一四年(一七九九‐一八八一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中久重」の意味・わかりやすい解説

田中久重
たなかひさしげ
(1799―1881)

幕末から明治初期の技術者。久留米(くるめ)のべっこう細工職人の長男に生まれた。細工や発明の才に優れ、巧妙な「からくり」人形を製作したりしたことから「からくり儀右衛門(ぎえもん)」ともよばれた。1813年(文化10)井上伝(いのうえでん)に協力して絵絣(えがすり)を発明、1817年父の死後、家業を弟に譲り、1824年(文政7)肥前国(佐賀県)、肥後国(熊本県)、大坂、京都に技術修業し、1834年(天保5)大坂に居を構え、懐中燭台(かいちゅうしょくだい)や無尽灯(むじんとう)を発明、製造販売するかたわら、なおその技量を磨いた。1837年大塩平八郎の乱で家財を焼失、京都伏見(ふしみ)に転居した。ここで幕府天文方間重富(はざましげとみ)がかつて精密器械をつくらせていた金工戸田東三郎忠行と親交を結び、その紹介で器械製造販売を続けながら天文暦学の土御門家(つちみかどけ)で天文暦学を学んだ。1849年(嘉永2)近江大掾(おうみのだいじょう)の号を大覚寺より授けられ、これを利用して1852年京都四条烏丸(からすま)に「機巧堂(からくりどう)」という店を出した。この間、須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作(1847)、また蘭学者(らんがくしゃ)広瀬元恭(ひろせげんきょう)と親交を結びヨーロッパの知識や技術を学び、1851年万年時計(自鳴鐘)を製作、これはヨーロッパの懐中時計を利用して精度を高め、洋式・日本式時刻、七曜、二十四節気、月の満ち欠け、干支(えと)をも表示する和時計の傑作である。このほか多数の高級和時計をつくり、1853年には佐賀藩精錬方に招かれ、日本最初の機関車模型を製作、1864年(元治1)久留米藩に招かれ、1866年(慶応2)同藩の今井栄(1822―1869)に従って軍艦買付けのため上海(シャンハイ)に渡った。1875年(明治8)東京の銀座に店を構え、田中製造所を開業、日本最初の民間機械工場となった。政府の指定工場として電信器の修理・製作にあたり、これが芝浦製作所となり今日の東芝へと連なる。日本の精密機械、工作技術の草創期に多くの技術者も育てた。なお、弟子の金子大吉(1864―1905)が養子となって田中姓を継ぎ、養父没後、2代目久重を襲名した。

[井原 聰]

『今津健治著『近代技術の先駆者東芝創立者田中久重の生涯』(1964・角川書店)』『今津健治著『からくり儀右衛門――東芝創立者田中久重とその時代』(1992・ダイヤモンド社)』


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朝日日本歴史人物事典 「田中久重」の解説

田中久重(初代)

没年:明治14.11.7(1881)
生年:寛政11.9.18(1799.10.16)
幕末明治期の科学技術者,発明家。通称は儀右衛門。べっこう細工師弥右衛門の長男として筑後国久留米通町(久留米市)に生まれる。若年より発明考案の才に恵まれ,15歳で久留米絣の創始者井上伝に頼まれて絵絣組み方機を発明,その他からくり人形や水からくりを考案したので「からくり儀右衛門」と呼ばれた。また時計の製作に興味を持ち,天保5(1834)年大坂に移って和時計の製作修理を業とする傍ら,鼠灯や無尽灯などの照明器具を工夫し,嘉永2(1849)年嵯峨御所より近江大掾久重の称を許される。翌年京都に移って広瀬元恭に蘭学を学び,各種のからくり時計や消火器などの製作販売をし,嘉永4年の春には,精密工芸品として知られる万歳自鳴鐘(万年時計=国立科学博物館所蔵)の完成をみた。翌5年の冬,佐賀藩精煉方に招かれて蒸気機関,銃砲などの製作に従事,蒸気船,軍艦の製造を命じられる。安政2(1855)年幕府が開設した長崎海軍伝習所の第1回伝習生として参加。この年には汽船,汽車の模型を完成している。元治1(1864)年には故郷の久留米藩から招聘を受け,鑓水製造所の指導を兼務することになった。明治6(1873)年藩営事業も終わったので,機械製造業を起こすため上京したところ,ブレゲ電信機などの製造修理を工務省から要請され,逓信省電信灯台用品製造所の前身である田中製造所を東京銀座に開設して政府の指定工場となる。田中製造所は2代久重により芝浦製作所(のちの東芝)へと発展した。<参考文献>田中近江翁顕彰会編『田中近江大掾』

(所荘吉)


田中久重(2代)

没年:明治38.2.23(1905)
生年:弘化3.9.1(1846.10.20)
明治時代の技術者,実業家。筑後国久留米(久留米市)の金工である金子荘右衛門の6男に生まれ,大吉という。初代田中久重が元治1(1864)年ごろに帰郷し久留米藩の事業にたずさわるようになると,門弟となり,やがてその才能を見込まれて養子となる。明治6(1873)年初代久重に従って上京した。翌年,電信寮製機所に勤務し,お雇い外国人技師の指導を受け電信機の製作に従事する。約3年にして外国人技師が帰国すると日本人技術者のみで機械の製作を進めた。14年初代の死去により久重を襲名,その翌年,東京芝浦に一大工場(田中製造所)を建設し,海軍の要請を受け当時のハイテク兵器ともいうべき水雷の製造に着手した。民間最初の近代機械工場のひとつである。19年から翌年にかけて海軍の角田秀松(のちに中将)に随行して欧米諸国を視察し,新しい機械を購入して帰国した。水雷のほかにも警視庁の非常報知機や石油採掘用の鑿井機械などを製作し,小型船舶の製造にも進出した。やがて魚雷の大型化,そして海軍工廠の充実によって海軍からの発注が打ち切られた。従って負債がかさみ,三井の経営に移り,26年芝浦製作所(東芝の前身)と改名された。しかしその金工から機械技術に至る技術的系譜は東京の機械工業のひとつの大きな源流をなしている。晩年は東京車両製造所を創設し鉄道用車両を製造し,また銀座の田中商会において内外の機械を取り扱った。<参考文献>『芝浦製作所六十五年史』,今津健治『からくり儀右衛門』

(今津健治)

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改訂新版 世界大百科事典 「田中久重」の意味・わかりやすい解説

田中久重 (たなかひさしげ)
生没年:1799-1881(寛政11-明治14)

幕末・明治の機械技術者。久留米のべっこう細工師の長男として生まれ,幼時より機巧の才にたけ,〈からくり儀右衛門〉と呼ばれた。1824年(文政7),諸国遍歴に旅立ち,長崎を経て,大坂,京都に移り,天文暦学の土御門家に入門,嵯峨御所より御用時計師に与えられる近江大掾(だいじよう)の称号を授かり,京都に機巧堂という店舗をかまえた。各種の高級時計,無尽灯,雲竜水,須弥山儀などを製作し,また江戸期最高の万年時計を完成したが,これらは買手がつかず,見世物のからくり興業で渡世していた。54年(安政1)佐賀藩の精煉方に仕官し,中村奇輔,石黒寛二らとともに,日本最初といわれる模型の蒸気機関車をつくりあげた。73年(明治6)上京,75年銀座に田中製作所という日本最初の民間機械工場を開業し,その後これは養子2世田中久重(幼名金子大吉)の手を経て芝浦製作所となり,現在の東芝に成長していく。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中久重」の意味・わかりやすい解説

田中久重
たなかひさしげ

[生]寛政11(1799).9.18. 久留米
[没]1881.11.7.
発明家,通称儀右衛門。幼時から発明の才を発揮し,からくり儀右衛門と呼ばれた。天保5 (1834) 年大坂に移り,機械,器具の製作を行い,翌年伏見に移住,無尽灯を発明,嘉永2 (49) 年近江大掾となり,次いで京都に移った。縮象儀,雲竜水 (消火器) ,須弥山儀,万年自鳴鐘 (時計) などを製造,同5年蒸気船の雛型をつくった。同年招かれて佐賀に行き製錬所に勤め,いろいろの機械類を製作,汽船製造にも関係した。のち郷里久留米で工場を経営したが,1873年上京,工場を開いて電信機を製造した。同工場は工部省に買収された。2世の田中久重 (46~1905) はもと金子大吉。久留米の金工の子。初め彫金を学び,のち1世田中久重に入門,のち養子となり2世を名のった。上京して工部省電信寮に勤めたが,82年海軍の水雷製造のため官を辞し,芝金杉新浜町に田中製造所を設立,海軍の機械を中心に各種の機械類の製作を行なった。同工場はのち三井家に渡り芝浦製作所と改名された。 (→東芝 )

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百科事典マイペディア 「田中久重」の意味・わかりやすい解説

田中久重【たなかひさしげ】

幕末〜明治の発明家。通称儀右衛門,近江大掾(だいじょう)(御用時計師の称号)。筑後久留米の生れ。幼時から機工に長じ,〈からくり儀右衛門〉と呼ばれた。大坂,京都に出,雲竜水と呼ぶ消火器,須弥山(しゅみせん)儀などを作り,万年時計を完成。佐賀に移って機械類の製作に当たり汽船製造にも関与した。1873年(明治6年)上京,1875年日本最初の民間機械工場田中製作所を興した。同製作所は養子の2世久重(金子大吉)の手を経て今日の東京芝浦電気へつながっていく。→東芝

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中久重」の解説

田中久重(初代) たなか-ひさしげ

1799-1881 江戸後期-明治時代の技術者。
寛政11年9月18日生まれ。筑後(ちくご)(福岡県)久留米の鼈甲(べっこう)細工師の子。幼年から発明の才にすぐれ,からくり儀右衛門とよばれる。大坂・京都に出,無尽灯や万年時計を製作。のち肥前佐賀藩にまねかれ蒸気機関や大砲の製造にあたる。明治8年東京銀座に電信機製作の田中工場(東芝の前身)を創立した。明治14年11月7日死去。83歳。

田中久重(2代) たなか-ひさしげ

1846-1905 明治時代の技術者,実業家。
弘化(こうか)3年9月1日生まれ。筑後(ちくご)(福岡県)久留米の金工の子。初代久重の養子。明治6年養父とともに上京。15年電信機製作の田中工場を銀座から芝浦に移転,田中製造所と改称(26年芝浦製作所(現東芝)に改組),海軍兵器も製造。28年東京車輛製造所を創設した。明治38年2月23日死去。60歳。本姓は金子。幼名は大吉。

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367日誕生日大事典 「田中久重」の解説

田中 久重(2代目) (たなか ひさしげ)

生年月日:1846年9月1日
明治時代の技術者;実業家
1905年没

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世界大百科事典(旧版)内の田中久重の言及

【東芝[株]】より

…日立製作所と並ぶ,日本を代表する総合電機メーカー。1875年,天才発明家田中久重により田中製造所として個人創業されたのに始まる。電信機の製造を行ったが,93年三井銀行(1898年にはさらに三井鉱山)が継承し芝浦製作所と改称,1904年独立・改組して(株)芝浦製作所となった。…

※「田中久重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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