コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

勝海舟 かつ かいしゅう

11件 の用語解説(勝海舟の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

勝海舟

幕末・明治の幕臣・政治家。江戸生。旗本勝左衛門太郎の長男。名は初め義邦、のち麟太郎、維新後は安芳、通称に安房守、海舟は号。島田見山に剣道を学び、さらに永井青崖について蘭学を修業、のち私塾を開く。軍艦奉行大政奉還に尽力。維新後、新政府の海軍大輔・参議兼海軍卿・枢密顧問官となる。幕末三舟の一人。明治32年(1899)歿、77才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

かつ‐かいしゅう〔‐カイシウ〕【勝海舟】

[1823~1899]幕末・明治時代の政治家。江戸の人。名は義邦、のち安芳(やすよし)。通称、麟太郎。安房守(あわのかみ)。蘭学兵学を学び、万延元年(1860)幕府使節とともに、咸臨丸(かんりんまる)を指揮して渡米。幕府海軍育成に尽力。幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現。明治維新後、海軍卿・枢密顧問官などを歴任。著「吹塵録」「海軍歴史」、自伝「氷川清話」など。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

勝海舟【かつかいしゅう】

幕末・明治の政治家。名は義邦,のち安芳(やすよし)と改名。通称を麟太郎,安房守。海舟は号。旗本小普請組勝小吉の長男。蘭学・兵学を学び,長崎海軍伝習所に入る。1860年咸臨丸を指揮して太平洋を横断,アメリカ社会を見聞した。
→関連項目男谷精一郎開国論講武所佐久間象山征韓論高橋泥舟幕末遣外使節山岡鉄舟陸軍総裁

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

勝海舟 かつ-かいしゅう

1823-1899 幕末-明治時代の武士,政治家。
文政6年1月30日生まれ。勝惟寅(これとら)の長男。幕臣。嘉永(かえい)3年江戸に蘭学塾をひらく。長崎の海軍伝習所で航海術を習得。安政7年遣米使節の随行艦咸臨(かんりん)丸の艦長として太平洋を横断。帰国後,軍艦奉行にすすみ,神戸海軍操練所をひらき坂本竜馬らを育成した。慶応4年陸軍総裁となり,西郷隆盛と会見し,江戸無血開城を実現。明治6年海軍卿兼参議となるが8年免官。下野ののちは徳川家の後見と旧幕臣の生活救済につとめるとともに,旧幕府史料を編修し「開国起原」「吹塵録」などをあらわした。21年枢密顧問官。伯爵。明治32年1月19日死去。77歳。江戸出身。名は義邦,安芳(やすよし)。通称は麟太郎。
【格言など】事を遂げるものは愚直でなければならぬ,才走ってはいかぬ

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

勝海舟

没年:明治32.1.19(1899)
生年:文政6.1.30(1823.3.12)
幕末明治期の政治家。名は義邦,通称は麟太郎,昇進して安房守を称したが明治維新後に安芳と改称し,さらにこれを戸籍名とした。海舟は号。下級幕臣の長男として江戸に生まれた。父左衛門太郎(小吉)は自伝『夢酔独言』で知られる。従兄に剣聖男谷精一郎。剣術に続けて西洋兵学を究めるため蘭学に志し,ペリー来航時には江戸で有数の蘭学兵術家だった。安政2(1855)年から幕府の長崎海軍伝習に参加してペルス=ライケンカッテンデイケの教えを受けた。安政6年帰府すると軍艦操練所教授方頭取。万延1(1860)年には咸臨丸の事実上の艦長として太平洋を横断。文久2(1862)年幕政改革の一環として軍艦奉行並に抜擢された。翌3年4月には将軍徳川家茂の大坂湾視察を案内して神戸海軍操練所設立許可を取り付け,これを幕府と西南諸藩「一大共有之海局」に仕立て,さらに欧米の侵略に抵抗する東アジアの拠点に育て上げようとの構想を持った。元治1(1864)年5月神戸操練所発足とともに正規の軍艦奉行に昇ったが,同年7月の禁門の戦争以降の幕権保守路線に抵触して10月には江戸への召還命令に接し,戻ると罷免されて寄合入りした。慶応2(1866)年第2次征長戦争に際して軍艦奉行に復任し,会津・薩摩間の調停や長州との停戦交渉に当たる。明治1(1868)年鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜の東帰後は陸軍総裁に昇り軍事取扱に転じて旧幕府の後始末に努め,東征軍の江戸総攻撃予定日の前夜に西郷隆盛と談判して戦闘回避に成功した。一時は徳川家と共に駿府(静岡)に移ったが,新政府の相談に与って東京に出ることが多く,5年には海軍大輔,6年10月の政府大分裂のあとは参議兼海軍卿に任じた。しかし翌7年の台湾出兵に不満で辞任し,以後明治10年代にかけては完全に在野で西郷隆盛復権の運動などにかかわった。20年伯爵,21年枢密顧問官。明治政府の欧米寄りを批判し続けて清国との提携を説き,日清戦争には反対だった。足尾鉱毒事件を手厳しく批判し田中正造を支援した。<参考文献>石井孝『勝海舟』,松浦玲『明治の海舟とアジア

(松浦玲)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

江戸・東京人物辞典の解説

勝海舟

1823〜1899(文政6〜明治32)【幕臣】坂本竜馬など、幕末の志士を教育。 無血開城で江戸を戦禍から救う。幕臣。政治家。名は義邦、のち安芳と改名、海舟は号。江戸出身で旗本の子。従兄弟の男谷精一郎からは直新影流を学んだ。蘭学と軍艦操術を修め、海軍伝習のため長崎へ。1860年咸臨丸を指揮、太平洋を横断して渡米。海軍操練所では広く人材育成に努め、幕臣だけでなく坂本竜馬ら脱藩志士も門人として教育した。戊辰戦争では、幕府側代表として徳川家存続を条件に西郷隆盛と会見するなど、江戸無血開城に尽力した。伯爵。

出典|財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
(C) 財団法人まちみらい千代田
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉プラスの解説

勝海舟

1974年放映のNHK大河ドラマ。原作は、子母澤寛の同名小説。江戸城を無血開城に導いた幕臣・勝海舟の豪快な人物像を描く。脚本:倉本聡、中沢昭二。音楽:冨田勲。出演:渡哲也、松方弘樹ほか。主演の渡が病気のため途中降板し、松方に交代。

出典|小学館
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

かつかいしゅう【勝海舟】

1823‐99(文政6‐明治32)
幕末・明治の政治家。下級幕臣勝小吉の長男で通称麟太郎,名は義邦,海舟は号。幼少のころ将軍徳川家斉の孫初之丞の相手をつとめたが,その死によって微禄御家人の生活に戻り,島田虎之助について剣術をきわめ,ついで島田のすすめで蘭学により西洋兵学を身につけた。蘭学の師は永井青崖。本所に育ったが,蘭学修学の便のため赤坂に移り,1850年(嘉永3)赤坂田町に兵学塾を開いた。ペリー来航後しばしば上書してその識見を幕府有司に知られ,55年(安政2)初頭の海防掛視察団に加わって伊勢および大坂湾一帯の防備体制を調査,ついで同年から長崎ではじまる海軍伝習に幹部学生として派遣された。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

かつかいしゅう【勝海舟】

1823~1899) 江戸末期・明治の幕臣・政治家。名は義邦よしくに、のち安芳やすよし。通称、麟太郎。海舟は号。江戸の人。蘭学・兵学に通じ、蕃書翻訳所に出仕。1860年咸臨かんりん丸を指揮して太平洋を横断。64年海軍奉行。西郷隆盛と会見して江戸城明け渡しに尽力。維新後海軍大輔・枢密院顧問。著「海軍歴史」「吹塵録」「氷川清話」など。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

勝海舟
かつかいしゅう

[生]文政6(1823).1.30. 江戸
[没]1899.1.21. 東京
江戸時代末期の幕臣。明治の政治家。通称は麟太郎,名は義邦,のち安芳と改名。海舟はその号。旗本小普請組勝小吉の長男。蘭学を学び,砲術,航海,測量に一家をなし,蕃書調所の創設準備委員,次いで長崎の海軍伝習所に入る。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

勝海舟
かつかいしゅう
(1823―1899)

幕末期の開明的な幕臣。文政(ぶんせい)6年1月30日、石高41石余の貧乏旗本勝家に生まれる。通称麟太郎(りんたろう)、名は義邦(よしくに)、のち安芳(やすよし)と改名。海舟と号し、安房守(あわのかみ)と名のった。勝家は、父小吉(こきち)が婿養子になる形で同家の旗本株を買ったもの。小吉の生家である旗本男谷(おたに)家も、金貸しを営んでいた小吉の祖父男谷検校(けんぎょう)が、小吉の父のために買ったものであった。しかも父小吉が無役であり、市井(しせい)のなかで無頼の生活を送っていた関係で、周辺には庶民の雰囲気があった。剣は島田虎之助(とらのすけ)(直心影流(じきしんかげりゅう))に学び、その代稽古(だいげいこ)を勤めるほどになったが、島田の勧めで西洋兵学に志した。その勉強ぶりは有名で、入手しにくい蘭書(らんしょ)をその所有者の家に毎夜、半年間通って書写したという。こうして1850年(嘉永3)から自宅で蘭学塾を開くようになり、1855年(安政2)には大久保忠寛(ただひろ)(一翁(いちおう))に推挙されて蕃書(ばんしょ)翻訳所に出仕した。同年さらに海軍伝習生頭役(とうやく)として長崎の海軍伝習所に赴き、オランダ士官より航海術の訓練を受けた。3年後江戸に帰り軍艦操練所教師方頭取となり、1860年(万延1)には日米修好通商条約批准使節の新見正興(しんみまさおき)に随従して、咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断することとなった。
 日本人だけの太平洋横断を指揮し、アメリカで近代を見聞してきた海舟が、倒れかかった幕府で近代海軍を建設する仕事にとりかかる。帰国後各職を歴任し、1862年(文久2)軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)として神戸に海軍操練所を設け、幕臣だけでなく、坂本龍馬(りょうま)や龍馬に誘われた志士たちなどを含めて広く人材を集めた。2年後、海舟は免職になり操練所は閉鎖されるが、この間木戸孝允(たかよし)や西郷隆盛(たかもり)らと接触があり、彼らに影響を与えている。ところが1866年(慶応2)敗北した第二次幕長戦争(長州征伐)の跡始末のために登用されるが、フランスと手を組む幕府中心の主戦的な流れから孤立していく。海舟には、幕府よりも日本の国家統一を重視する考え方があったからであろう。戊辰(ぼしん)戦争で江戸が新政府軍に囲まれたとき、主戦派の幕臣をなだめ、新政府側の西郷隆盛と会談して江戸の無血開城を実現させたことは、こうした海舟の見識の結果であって、日本を外国の干渉から救うことをも意味した。
 維新後は、しばらく新政府の誘いを断って静岡(駿府(すんぷ))に退いていたが、1869年(明治2)兵部大丞(ひょうぶだいじょう)に就任してから、海軍大輔(たいふ)、参議兼海軍卿(きょう)を歴任し、のち元老院議官、枢密院顧問官となり、伯爵になっている。旧幕臣で新政府に出仕したのが珍しかったためか、福沢諭吉に「痩我慢(やせがまん)の説」で非難された。しかし余生は、旧幕府の歴史の著述に使っており、『海軍歴史』『陸軍歴史』『吹塵録(すいじんろく)』などが知られている。また海舟の談話筆記である『氷川清話(ひかわせいわ)』と『海舟座談』は、海舟の生い立ちや考え方を知るにはよい材料である。明治32年1月19日没。墓所は、別邸「洗足軒(せんぞくけん)」のあった東京都大田区洗足池畔。[池田敬正]
『松浦玲著『勝海舟』(中公新書) ▽石井孝著『勝海舟』(1974・吉川弘文館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の勝海舟の言及

【江戸開城】より

…江戸に迫った東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王以下の新政府軍は,3月6日江戸城進撃の日を3月15日と決めた。旧幕府陸軍総裁勝海舟(安房)は,山岡鉄舟(鉄太郎)を大総督府参謀西郷隆盛のもとに派遣し,戦乱による人民蜂起の危険を説いた。イギリス公使パークスの戦争反対の意向も聞いた西郷は,13日,14日と勝と会談し,無血開城で合意し,総攻撃を中止のうえ,上京して慶喜処分案の朝裁をえた。…

【海軍省】より

…72年2月兵部省が廃止されて海軍省が設置され,陸海軍は分離独立することになった。初代海軍卿は勝海舟で,85年内閣制度が創設されると長官は海軍大臣となった。はじめ海軍省は,軍政,軍令を一元的に統轄する機関として出発した(軍制)。…

【海軍操練所】より

…(1)幕末の海軍学校。江戸築地と神戸の2ヵ所に設けられた。現在では江戸の操練所を軍艦操練所,神戸のものを海軍操練所と呼び分けることが多い。神戸操練所は1863年(文久3)4月に設置が決定されたもので,当初は造船所と併設される計画であった。これを建議し,統督した軍艦奉行勝麟太郎(海舟)によると,その主目的は西国の浪人に航海術を教え,近隣諸外国を実地視察させて,その攘夷への情熱を長期的な防衛への努力に転じ,海軍の興隆と人材の活用をあわせ行うことであった。…

【開国起原】より

…旧幕臣勝海舟が編纂した書で,1893年(明治26)に成った。3巻。…

【勘定奉行】より

…したがって勘定所文書はなんらかの機会に書写・抄録・編纂された史料が主体となる。編纂史料としては大蔵省編の前述3書のほか,旧幕臣勝海舟が維新前より収集した経済史料を編集し,大蔵大臣松方正義に提出した大蔵省編の《吹塵録》《吹塵余録》,勘定組頭向山源大夫が幕命により1838‐56年(天保9‐安政3)に編述した《誠斎雑記》,下勘定所支配勘定大田南畝が竹橋門内勘定所書庫古文書整理中に書写した《竹橋(ちつきよう)余筆》《竹橋蠹簡(とかん)》《竹橋余筆別集》などがある。近年,財政に関与した老中などの文書に職掌上入手した勘定所文書があるのが紹介され,享保期の大河内家記録,延享期の酒井家記録,幕末の井伊家史料・水野家文書が知られている。…

【陸軍総裁】より

…66年(慶応2)老中格松平乗謨(のりあきら)が陸軍総裁となり,海軍,国内事務,外国事務,会計の各総裁にもそれぞれ老中が任じられ,67年6月幕閣の五局専任制が発足した。68年正月23日松平乗謨辞任後は,若年寄次席勝海舟が補任され,最後の陸軍総裁となった。【梅沢 ふみ子】。…

※「勝海舟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

勝海舟の関連キーワード紀定麿永井介堂清水東陽菅江嶺佐竹義躬安東九華伊藤痴遊(初代)奥村栄滋加賀美嘉兵衛(1)和田菁華

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone

勝海舟の関連情報