精選版 日本国語大辞典 「陸奥宗光」の意味・読み・例文・類語
むつ‐むねみつ【陸奥宗光】
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明治時代の外交官、政治家。天保(てんぽう)15年7月7日、和歌山藩士伊達宗広(千広)(だてむねひろ(ちひろ))の六男として生まれる。宗広が藩内の政争で失脚したため江戸に出て苦学、安井息軒(そくけん)などに師事。やがて尊王攘夷(じょうい)運動に身を投じて坂本龍馬(りょうま)を知り、1863年(文久3)ともに勝海舟(かつかいしゅう)の神戸海軍操練所に入った。同所が閉鎖されると龍馬に従って長崎で亀山(かめやま)社中を結成、海運・商業に従事、このころに陸奥陽之助(ようのすけ)と称した。1867年(慶応3)には龍馬の下で海援隊に入って活躍した。明治維新とともに外国事務局御用掛に登用され、兵庫県知事などを経て和歌山藩の藩政改革を担当。渡欧後、政府に復帰して神奈川県知事となり、1872年(明治5)には租税権頭(ごんのかみ)に任じられて地租改正を建議した。1875年元老院議官となる。1877年の西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加担し、1878年に拘引され、免官、下獄した。1882年出獄後外遊、1888年駐米公使となり、メキシコとの間の最初の対等条約締結に成功した。第一次山県有朋(やまがたありとも)内閣に農商務大臣として入閣、最初の議会で政党工作に努め、続く松方正義(まつかたまさよし)内閣にも留任したが、選挙干渉問題をめぐる政府の責任を追及して辞任した。枢密顧問官を経て第二次伊藤博文(ひろぶみ)内閣の外務大臣となり、イギリスとの間で条約改正交渉を進め、対外硬派による反対を抑えて1894年7月日英通商航海条約の調印にこぎ着け、治外法権の撤廃に成功した。さらに朝鮮で東学党の乱(甲午(こうご)農民戦争)が起こるとただちに出兵を決定、8月日清(にっしん)戦争に突入した。1895年伊藤首相とともに全権として講和条約に調印したが、三国干渉を受け、遼東(りょうとう)半島の還付を決断した。戦争中から持病の肺結核が進行し、1896年5月外務大臣を辞任した。この間1895年に伯爵となる。その後、竹越与三郎(たけごしよさぶろう)に雑誌『世界之日本』を編集させ、匿名で寄稿したが、明治30年8月24日没した。回顧録に『蹇蹇録(けんけんろく)』がある。
[宇野俊一]
『『蹇蹇録』(岩波文庫)』▽『陸奥広吉編『伯爵陸奥宗光遺稿』(1929・岩波書店)』▽『萩原延壽著『陸奥宗光』上下(2007~2008・朝日新聞出版)』
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(酒田正敏)
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1844.7.7~97.8.24
幕末期の和歌山藩士,明治期の政治家。旧名伊達陽之助。幕末期に脱藩して坂本竜馬の知遇を得て海援隊に加わる。維新後,外務大丞・大蔵省租税頭・元老院議官などを歴任したが,西南戦争時に西郷軍に通謀した疑いで1878年(明治11)禁獄5年の刑をうけた。82年特赦されて欧米に渡り,88年駐米公使としてメキシコとの対等条約の締結に成功。90年第1次山県内閣の農商務相に起用され,第1次松方内閣にも残留,旧縁をいかして自由党・独立倶楽部に独自の影響力をもった。92年の選挙干渉問題で品川弥二郎内相と対立して辞任したが,第2次伊藤内閣の外相となり,治外法権の撤廃を内容とする条約改正を実現したほか,日清戦争の講和条約,三国干渉などの処理や議会対策に大きな成果を残した。伯爵。
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…翌91年12月の第2議会で田中正造は鉱毒質問を行い,足尾鉱毒問題は全国に知れわたった。殖産興業政策の柱のひとつで重要な外貨獲得産業である産銅業の保護育成をはかっていた政府は,次男を古河の養嗣子にしていた陸奥宗光が農商務大臣だったこともあって鉱毒問題を重視し,その鎮静化のために被害民と古河との間に,わずかの補償とひき換えにいっさいの苦情を申し立てないことをうたった示談契約を締結させた。この示談工作と日清戦争の勃発により鉱毒反対運動は一時後退するが,96年9月未曾有の大洪水が発生し,鉱毒被害は栃木,群馬の2県から茨城,埼玉,さらには東京,千葉にも拡大したため,田中正造らは被害地の町村長や有志活動家を中心に鉱毒反対運動を再編強化し,〈対政府鉱業停止運動〉として確立させた。…
…明治維新後,軍隊の洋式化が進み,多量の革製品が必要となった。最初の近代なめし技術の導入は,1869年(明治2)陸奥宗光によって,ドイツより技術者を招いて和歌山に製革伝習所を開設したのが始まりである。その後は急速に技術が進歩し,主として軍用品としての需要が増大し,皮革産業の発展をみるに至った。…
…陸奥(むつ)宗光の著書。1895年10月,療養中の大磯で速記者に口述し,そののち推敲したものであるが,外務省の機密文書を引用した外交秘録であることから,当時一般に流布されることなく,秘密出版として少部数が作られた。…
…これまで改正交渉に消極的だったイギリスはロシアの極東進出を牽制するため,日本の好意を得ようと,交渉を受け入れる姿勢を示したが,大津事件(1891)で青木は引責辞任した。第2次伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は議会の反対を防ぐため自由党と提携したが,改進党や国民協会は千島艦事件(1892)の責任追及のなかで対外強硬論をもりあげ,改正交渉を牽制した。陸奥は第5議会を解散して対外硬派を抑え,イギリスに外人排斥運動の取締りを保証した。…
※「陸奥宗光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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