明治時代の政治家、日本赤十字事業の創始者。文政(ぶんせい)5年12月28日、佐賀藩士下村充贇(しもむらみつよし)の五男として生まれ、藩医佐野常徴(つねよし)の養子となる。藩校弘道館(こうどうかん)で医学を修め、のち大坂の適塾で蘭学(らんがく)を修得。帰藩後、藩の精煉社(せいれんしゃ)で大砲や蒸気船製造の任にあたる。1867年(慶応3)パリ万国博覧会視察のため藩命により渡欧。
1870年(明治3)兵部少丞(ひょうぶしょうじょう)、翌1871年創設まもない工部省に転じ、大丞となる。外国艦船の購入や造船技術の伝習などに努めて新政府海軍の創設に尽力したほか、灯台建設など広く西洋工業技術の導入を急務とする政府の施策にも貢献した。1873年ウィーンで万国博覧会が開かれると大蔵卿(おおくらきょう)大隈重信(おおくましげのぶ)の下で同博覧会事務局副総裁となり、現地で運営にあたり成功。1877年西南戦争に際して博愛社(はくあいしゃ)を設立し、敵味方の区別なく負傷者の看護にあたらせ、1887年博愛社が日本赤十字社となると、初代社長となるなど、社会・文化事業面での活動も多岐にわたった。1880年の政府職制の改正に際し、大隈の後を襲って一時、大蔵卿に就任したほか、元老院議長、枢密顧問官、農商務相を歴任、薩長(さっちょう)閥の政府にあって開明的な独自の地位を保った。明治35年12月7日没。
[田中時彦]
『北島磯次著『佐野常民伝』(1928・佐賀野中萬太郎)』▽『吉川龍子著『日赤の創始者 佐野常民』(2001・吉川弘文館)』
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佐賀藩士,日本赤十字社の創立者。藩命により京都,大坂へ遊学。大坂では緒方洪庵の適塾に学んだ。ついで長崎に学んだのち藩の精煉社の主任となり,1855年(安政2)日本最初の蒸気船,蒸気車の模型製作に成功,63年(文久3)には蒸気船凌雲丸をつくった。67年(慶応3)パリ万国博覧会のために渡仏し,工業技術を学ぶとともに赤十字社のことを知った。維新後兵部少丞として海軍創設に努力し,ついでイタリア,オーストリアの公使となった。77年西南戦争にさいし,官賊の別なく傷病者を救療する戦地病院博愛社を創立,これが87年日本赤十字社となり,初代社長に就任。1880年大蔵卿,82年元老院議長,88年枢密顧問官など要職を歴任,92年には農商務相を務めた。
執筆者:田村 貞雄
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1822.12.28~1902.12.7
幕末期の佐賀藩士,明治期の藩閥政治家。蒸気船の建造など佐賀藩の西欧技術導入に貢献した。維新後,兵部省をへて工部省で累進し,元老院議官・大蔵卿・元老院副議長をへて1888年(明治21)枢密顧問官となる。第1次松方内閣末期に農商務相を務めたのち枢密顧問官に復した。西南戦争中に博愛社(のち日本赤十字社)をおこす。竜池会(のち日本美術協会)による美術工芸の奨励でも知られる。伯爵。
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…ジャカード機は文様に必要な絵緯を織り込む杼口を開くように工夫された紋織の装置で,これまで機の上で通糸をいちいち手で引き上げていたときと比べると,その能率は4倍も向上したといわれるほど著しい変革をもたらした。73年には佐野常民によってオーストリア式が輸入され,86年には桐生にアメリカから米国製のものが輸入されている。また77年ころにはジャカードより簡便な紋織機ドビーも輸入された。…
…西南戦争で出たおびただしい死傷者のうち,官軍側の負傷者は軍病院に収容されて手当てをうけたが,西郷側の死傷者は山野に放置され,その惨状は目をおおわしめた。これに対して元老院議官佐野常民らは,西郷側の暴徒といえども天皇の赤子であることには変わりないと政府に請願書を提出,かつて佐野が藩主の命でパリに行ったときにその存在を知った赤十字社にならい,1877年博愛社を創設した。博愛社はその後陸軍の後援のもとに博愛社病院を作り,同時に赤十字条約に加入,87年,日本赤十字社と改称された。…
…このため,もともと〈お道具〉としての工芸が,同時代の生活のなかからくみあげていた生命力は,工業製品としての工芸には反映されえず,明治の工芸はその内面から衰弱していったといえる。 各種工芸振興策のなかでもその中心は,1873年のウィーン万国博覧会参加の際,日本側の博覧会事務局副総裁であった佐野常民,彼とともにウィーンに派遣された御雇外国人ワグネル(G.ワーグナー)や納富介次郎(のうとみかいじろう)(1844‐1918),そして技術伝習生たちによるものだった。彼らによって,美術工業育成の理論化,内国勧業博覧会創設の準備(勧業博覧会),各県の工業(芸)学校開設,工芸品製作輸出会社・起立工商会社の設立,個別な科学的製作技術の移植などが行われた。…
…68年,友人に請われ長崎にセッケン工場建設のため来日,やがて有田焼の改良研究をはじめ,九州地方の窯業を指導した。71年上京して大学南校ついで東校で数学,物理,化学を講じ,そのかたわら日本の陶磁器,工芸史を研究,72年オーストリアおよび日本政府(ことに佐野常民)に懇請されてウィーン万国博覧会顧問となり,以来フィラデルフィア万博,また日本の第1回内国勧業博覧会事業を指導し,みずからも旭焼とよぶ美しい陶器を創製するなど,伝統的な工芸技術を基軸としつつ日本の近代産業を起こす道の開拓につとめた。さらに京都府の医学校や舎密局における理化学とその技術の推進,東京大学理学部の応用化学講義担任,農商務省分析課の指導,東京職工学校(現,東京工業大学)の窯業関係技術教育の推進など,その後半生を日本の科学技術と産業発展のためにつくした。…
※「佐野常民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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