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佐野常民 さの つねたみ

百科事典マイペディアの解説

佐野常民【さのつねたみ】

明治の政治家。日本赤十字社の創立者。佐賀藩出身。緒方洪庵適塾や長崎で学び,1863年には蒸気船凌雲(りょううん)丸を建造。1867年パリ万国博覧会のため渡仏し,帰国後明治政府の下で海軍育成に尽力。
→関連項目博愛社三重津海軍所跡竜池会

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

佐野常民 さの-つねたみ

1823*-1902 幕末-明治時代の武士,政治家。
文政5年12月28日生まれ。肥前佐賀藩士。藩医佐野常徴(つねあき)の養子。医学,蘭学,化学をまなび,藩の精煉方主任となり,日本初の蒸気船をつくる。ヨーロッパ視察後,新政府で海軍創設につくす。明治10年博愛社(のち日本赤十字社)を創設。元老院議長,農商務相をつとめた。明治35年12月7日死去。81歳。本姓は下村。通称は栄寿,栄寿左衛門。

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世界大百科事典 第2版の解説

さのつねたみ【佐野常民】

1822‐1902(文政5‐明治35)
佐賀藩士,日本赤十字社の創立者。藩命により京都,大坂へ遊学。大坂では緒方洪庵の適塾に学んだ。ついで長崎に学んだのち藩の精煉社の主任となり,1855年(安政2)日本最初の蒸気船,蒸気車の模型製作に成功,63年(文久3)には蒸気船凌雲丸をつくった。67年(慶応3)パリ万国博覧会のために渡仏し,工業技術を学ぶとともに赤十字社のことを知った。維新後兵部少丞として海軍創設に努力し,ついでイタリアオーストリアの公使となった。

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大辞林 第三版の解説

さのつねたみ【佐野常民】

1822~1902) 政治家。佐賀藩の人。西南戦争の際、博愛社を創設、のち日本赤十字社と改称して社長となった。元老院議長・枢密顧問官などを歴任。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

佐野常民
さのつねたみ

[生]文政5(1822).12.28. 佐賀
[没]1902.12.7. 東京
日本赤十字事業の創始者。明治政府の高官。佐賀藩士。幕末に渡欧し,帰国後新政府の海軍創設に尽力。 1877年西南戦争のとき博愛社を立てて敵味方の区別なく傷病者の看護にあたった。 87年博愛社が日本赤十字社に改称されると初代社長となる。また大蔵卿,元老院議長,農商務大臣などを歴任,政府内で独自の開明的地位を保った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

佐野常民
さのつねたみ
(1822―1902)

明治時代の政治家、日本赤十字事業の創始者。文政(ぶんせい)5年12月28日、佐賀藩士下村充贇(しもむらみつよし)の五男として生まれ、藩医佐野常徴(つねよし)の養子となる。藩校弘道館(こうどうかん)で医学を修め、のち大坂の適塾で蘭学(らんがく)を修得。帰藩後、藩の精煉社(せいれんしゃ)で大砲や蒸気船製造の任にあたる。1867年(慶応3)パリ万国博覧会視察のため藩命により渡欧。
 1870年(明治3)兵部少丞(ひょうぶしょうじょう)、翌1871年創設まもない工部省に転じ、大丞となる。外国艦船の購入や造船技術の伝習などに努めて新政府海軍の創設に尽力したほか、灯台建設など広く西洋工業技術の導入を急務とする政府の施策にも貢献した。1873年ウィーンで万国博覧会が開かれると大蔵卿(おおくらきょう)大隈重信(おおくましげのぶ)の下で同博覧会事務局副総裁となり、現地で運営にあたり成功。1877年西南戦争に際して博愛社(はくあいしゃ)を設立し、敵味方の区別なく負傷者の看護にあたらせ、1887年博愛社が日本赤十字社となると、初代社長となるなど、社会・文化事業面での活動も多岐にわたった。1880年の政府職制の改正に際し、大隈の後を襲って一時、大蔵卿に就任したほか、元老院議長、枢密顧問官、農商務相を歴任、薩長(さっちょう)閥の政府にあって開明的な独自の地位を保った。明治35年12月7日没。[田中時彦]
『北島磯次著『佐野常民伝』(1928・佐賀野中萬太郎) ▽吉川龍子著『日赤の創始者 佐野常民』(2001・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の佐野常民の言及

【織物】より

…ジャカード機は文様に必要な絵緯を織り込む杼口を開くように工夫された紋織の装置で,これまで機の上で通糸をいちいち手で引き上げていたときと比べると,その能率は4倍も向上したといわれるほど著しい変革をもたらした。73年には佐野常民によってオーストリア式が輸入され,86年には桐生にアメリカから米国製のものが輸入されている。また77年ころにはジャカードより簡便な紋織機ドビーも輸入された。…

【日本赤十字社】より

…西南戦争で出たおびただしい死傷者のうち,官軍側の負傷者は軍病院に収容されて手当てをうけたが,西郷側の死傷者は山野に放置され,その惨状は目をおおわしめた。これに対して元老院議官佐野常民らは,西郷側の暴徒といえども天皇の赤子であることには変わりないと政府に請願書を提出,かつて佐野が藩主の命でパリに行ったときにその存在を知った赤十字社にならい,1877年博愛社を創設した。博愛社はその後陸軍の後援のもとに博愛社病院を作り,同時に赤十字条約に加入,87年,日本赤十字社と改称された。…

【明治・大正時代美術】より

…このため,もともと〈お道具〉としての工芸が,同時代の生活のなかからくみあげていた生命力は,工業製品としての工芸には反映されえず,明治の工芸はその内面から衰弱していったといえる。 各種工芸振興策のなかでもその中心は,1873年のウィーン万国博覧会参加の際,日本側の博覧会事務局副総裁であった佐野常民,彼とともにウィーンに派遣された御雇外国人ワグネル(G.ワーグナー)や納富介次郎(のうとみかいじろう)(1844‐1918),そして技術伝習生たちによるものだった。彼らによって,美術工業育成の理論化,内国勧業博覧会創設の準備(勧業博覧会),各県の工業(芸)学校開設,工芸品製作輸出会社・起立工商会社の設立,個別な科学的製作技術の移植などが行われた。…

【ワーグナー】より

…68年,友人に請われ長崎にセッケン工場建設のため来日,やがて有田焼の改良研究をはじめ,九州地方の窯業を指導した。71年上京して大学南校ついで東校で数学,物理,化学を講じ,そのかたわら日本の陶磁器,工芸史を研究,72年オーストリアおよび日本政府(ことに佐野常民)に懇請されてウィーン万国博覧会顧問となり,以来フィラデルフィア万博,また日本の第1回内国勧業博覧会事業を指導し,みずからも旭焼とよぶ美しい陶器を創製するなど,伝統的な工芸技術を基軸としつつ日本の近代産業を起こす道の開拓につとめた。さらに京都府の医学校や舎密局における理化学とその技術の推進,東京大学理学部の応用化学講義担任,農商務省分析課の指導,東京職工学校(現,東京工業大学)の窯業関係技術教育の推進など,その後半生を日本の科学技術と産業発展のためにつくした。…

※「佐野常民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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