津藩 (つはん)
伊勢国(三重県)安濃郡津(安濃津)に本城をおいた外様藩。安濃津藩,藤堂藩ともいう。織田信包(のぶかね)が1569年(永禄12)以来津城主であったが,文禄年間(1592-96)富田氏が移って付近5万石余を支配した。1608年(慶長13)伊予国から転封になった藤堂高虎が伊賀全国および伊勢国安濃郡,一志郡の内に合わせて22万石余の領地を与えられて,本格的な藩政時代となり,藤堂氏は廃藩置県まで津藩主として支配をつづけた。知行高は1617年(元和3)大坂冬・夏の陣の功績によって南伊勢に加封され,そこを大和,山城に換封,下総にも領地を得て,伊賀,伊勢,大和,山城,下総にまたがる32万石余となった。3代藩主高久の69年(寛文9)に次子高通を久居(ひさい)に分封して支藩をつくり,27万石余となって以後,その領地は変化しなかった。
高虎は,有事の際は伊賀上野城に拠り,平時の居城は津城とすることを決め,家臣も上野に分置した。津と上野の2ヵ所に城下町を建設,藩主は津城と江戸を往復し,上野には城代が常駐した。領民支配の機構は家老-加判奉行-代官-大庄屋-庄屋であり,町方は町年寄-名主であった。藤堂藩の税法は平高(ならしだか)制がとられ,年貢率が一律4割にそろうように,従来の年貢量を減少させずに基礎の村高を上下させたため,負担過重になる村があり,藩政期を通じて矛盾の原因になった。家臣は知行地支配をやめさせ,俸禄制に切り替えた。これによって藩主権力の強化,家臣団の窮乏化防止を図ろうとしたが,藩財政の根本的な解決はできなかった。
3代藩主高久は広範な農村政策を実施し,幕府への接近も図って,藩体制の基礎を確立したが,以後大規模な幕府御手伝普請もあって財政難はいよいよ進行した。9代高嶷(たかさと)のもと,寛政期(1789-1801)に下級の能吏を抜擢(ばつてき)して藩政改革に踏み切り,菓木役所を新設して殖産国益政策をすすめた。また領民の預金を集めて広く融資する切印金の制度を享保年間(1716-36)から実施していたが,これも利率が上がり疲弊の原因となってきたので,徳政令ともいうべき百年賦返済を発令した。さらに土地兼併を抑えるために均田令を発した。そのほか常廻目付の新設,影伐令,節倹令などの改革を実行したが,ついに領民の反発を招き,1796年大規模な惣百姓強訴が起こった。この一揆は激しい打毀をともない,藩は全面的に改革令を撤回し,改革の責任者を罷免して領内を鎮めた。10代高兌(たかさわ)のもとで藩政の立直しをこころみ,津に有造館,上野に崇広堂を開いて士風を引き締め,いくつかの農村復興策をすすめたが,概して風紀回復,救済事業の性格がつよかった。幕末の政治変動のなかでは,私闘に加わらずという姿勢で臨み,はじめ徳川方に味方することを決めたが,朝廷からの働きかけもあって薩長側の戦列に入った。
執筆者:深谷 克己
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津藩
つはん
伊勢(いせ)国津(三重県津市)周辺と伊賀(いが)国(三重県西部)を領有した藩。安濃津(あのつ)藩、藤堂(とうどう)藩ともいう。外様(とざま)。関ヶ原の戦いで東軍に属した津城主富田信高(とみたのぶたか)(5万石)の伊予宇和島への移封、また伊賀上野(うえの)を領知した筒井定次(つついさだつぐ)(20万石)の乱行による改易の後を受けて、藤堂高虎(たかとら)が伊予今治(いまばり)から1608年(慶長13)に入封し22万0900石を領有、津・上野両城を治めた。大坂冬・夏両陣の功で1617年(元和3)には石高(こくだか)32万3000石余となる。高虎は城下町の経営に力を入れ、津は伊勢第一の繁栄をみた。高虎の保護に支えられ、津商人は江戸にも進出し伊勢商人として大伝馬(おおでんま)町を支配するに至る。高虎は外様ではあったが、将軍家の信任を得た。以後、高次(たかつぐ)、高久(たかひさ)、高睦(たかちか)、高敏(たかとし)、高治(たかはる)、高朗(たかあき)、高悠(たかなが)、高嶷(たかさど)、高兌(たかさわ)、高猷(たかゆき)、高潔(たかきよ)と260年間、国替もなく明治維新を迎えた。この間、2代高次、3代高久は藩体制確立に努め、1669年(寛文9)高久は弟高通(たかみち)に久居(ひさい)藩(5万石)、同高堅(たかかた)に3000石を分封、天和(てんな)・貞享(じょうきょう)期(1681~88)には玉置甚三郎(たまおきじんざぶろう)らに法制を整備させた。4代高睦から8代高悠のころは天災・凶作が続発し、藩政も衰退の一途をたどる。9代高嶷治世の寛政(かんせい)期(1789~1801)には郡奉行(こおりぶぎょう)茨木理兵衛(いばらぎりへえ)ら下級武士層を中心に藩政改革の動きがあったが、平高(ならしだか)制をはじめ人心を無視した改革のため、農民層の反発を招き寛政一揆(いっき)が起こった。10代高兌は率先して藩政刷新の範を示し、藩校有造館(ゆうぞうかん)を設け学芸を奨励し中興の明主と称された。11代高猷は1859年(安政6)偕楽園(かいらくえん)をつくる。1871年(明治4)12代高潔のとき廃藩となり、津県、安濃津県を経て76年三重県に編入された。
[原田好雄]
『岡正基他編『津市の歴史散歩』(1970・津市教育委員会)』▽『梅原三千・西田重嗣編『津市史』全5冊(1959~69・津市役所)』▽『宇野哲人・乙竹岩造著『藩学史談』(1943・文松堂書店)』
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つはん【津藩】
江戸時代、伊勢(いせ)国安濃(あのう)郡津(安濃津(あのつ):現、三重県津市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は有造館(ゆうぞうかん)。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いの功で富田信高(とみたのぶたか)が安濃津城主への復帰がなったが、08年に伊予(いよ)国宇和島(うわじま)藩に移封(いほう)された。代わって、築城の才で徳川家康(とくがわいえやす)の信任を得、関ヶ原の戦いでも功のあった藤堂高虎(とうどうたかとら)が、伊予国今治(いまばり)藩20万石から伊勢国と伊賀(いが)国内の22万石余に加増されて入封した。さらに大坂の陣の功で17年(元和(げんな)3)に32万石余となり、外様でありながら別格譜代の扱いを受ける大大名にのしあがった。以後、明治維新まで国替えもなく、藤堂氏12代が続いた。所領は、3代高久(たかひさ)のとき、弟の高通(たかみち)を久居(ひさい)に分封して支藩をつくったことで27万石余となり、以後はほぼ変化がなかった。10代高兌(たかさわ)は藩政改革を成功させ、藤堂家中興の明主(めいしゅ)と称された。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では初め幕府側に立ったが、朝廷からの働きかけもあって新政府軍に与(くみ)して幕府軍と戦った。1871年(明治4)の廃藩置県で安濃津県となり、翌年三重県と改称された。◇安濃津藩、藤堂藩ともいう。
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津藩【つはん】
安濃津(あのつ)藩・藤堂(とうどう)藩とも。伊勢(いせ)国津に藩庁をおいた外様(とざま)藩。1608年藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊賀(いが)1国と伊勢国安濃(あの)・一志(いちし)2郡の22万石で入部し成立。本城に津城,有事の際用に伊賀上野(うえの)城を当て,それぞれ城下町を建設。のち加封により32万石となるが,久居(ひさい)藩を分封,27万石で明治に至る。→藤堂氏
→関連項目伊賀街道|伊賀国|伊勢国|田丸
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津藩
つはん
安濃津藩(あのつはん)・藤堂藩とも。伊勢国津(現,津市)を城地とする外様大藩。1595年(文禄4)から2代続いた富田氏ののち,1608年(慶長13)藤堂高虎が伊予国今治から,伊賀一国および伊勢国安濃・一志両郡など22万石余で入封し,以後12代にわたる。藩領は2度の加増および分知などで地域・石高ともにたびたび変化したが,97年(元禄10)からは伊勢国安濃郡など7郡内および伊賀一国などで27万石余となった。初代高虎は平高(ならしたか)を設けて定免法を実施するなど,津藩政の基礎を造り,10代高兌(たかさわ)は藩校有造館・崇広堂(しゅうこうどう)を設けるなど,藩中興の明主とされた。支藩に久居(ひさい)藩。詰席は大広間。廃藩後は津県となる。
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津藩
伊勢国、津(現:三重県津市)を本拠地とした外様藩。慶長年間、かつて織田信長の弟・信包(のぶかね)や富田氏が居城とした安濃津(あのつ)城に、伊勢・伊賀両国の22万石余を与えられた藤堂高虎が入城。以後藤堂氏が幕末まで藩主をつとめた。
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世界大百科事典(旧版)内の津藩の言及
【伊賀国】より
…同年9月に高虎は上野城に入ったが,本城を伊勢津城とし10月上旬に移ったので,以後は城代が配された。その後,36年(寛永13)に高虎の義子高吉が名張郡簗瀬の寨(とりで)に配されて名張家2万石の祖となったが,家臣の最高位という位置を出なかったから,廃藩置県まで津藩の一国支配が続いた。津藩は旧土豪層を無足人(むそくにん)(在郷武士)に取り立て,また[伊賀者]に採用して,伊賀の安定をはかった。…
【宗国史】より
…伊勢国津(安濃津)藩の藩政記録。伊賀国上野城代の家老藤堂高文が編集したもの。…
【津[市]】より
…北部の一身田(いしんでん)は江戸時代に真宗高田派の本山[専修(せんしゅう)寺]の寺内町および参宮街道の宿場として発達した。津藩主藤堂氏の山荘であった市立偕楽公園はツツジ,桜の名所で,南部の[阿漕(あこぎ)浦]は海水浴場として知られる。【成田 孝三】
[津城下]
伊勢国安濃郡の城下町。…
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