国指定史跡ガイド 「庄内藩ハママシケ陣屋跡」の解説
しょうないはんハママシケじんやあと【庄内藩ハママシケ陣屋跡】
北海道石狩市浜益区の日本海に近い浜益川北岸の丘陵南斜面にある、蝦夷地(えぞち)警備を担当した庄内藩の本陣屋跡。1855年(安政2)、東西蝦夷地を幕府直轄にした江戸幕府は、松前藩のほか仙台、南部、津軽、秋田の4藩に蝦夷地の分担警備を命じ、さらに1859年(安政6)には会津、庄内(鶴岡)両藩を警備に加えた。同年9月に幕府から西蝦夷地のハママシケ(浜増毛、浜益)領、ルルモッペ(留萌)領などを含む領地を下賜され、ヲタスツ(歌棄)領からアツタ(厚田)領までの警備を命じられた出羽の庄内藩主酒井忠発(ただあき)が、黄金川(浜益川)河口の平野北岸に設営したのが、庄内藩ハママシケ陣屋である。建築資材は出羽の酒田から運び、土台石も鶴岡から花崗岩を持ってきた。そうした資材の運搬のために黄金川から陣屋建設地まで運河を掘り、この運河は多額の費用がかかったため、「千両堀」と呼ばれた。陣屋のおもな建物は、1860年(万延1)中にできあがり、翌年には移民たちによる開墾も始まった。入植移民による農耕は、蝦夷地警備の諸藩と比べて成功し、副奉行以下193人を擁したハママシケ本陣屋は、そうした蝦夷地経営の中心拠点となった。しかし、1868年(慶応4)に戊辰(ぼしん)戦争が起きると、藩士・農民の総引き揚げが行われ、陣屋は放棄された。1988年(昭和63)にその遺構が国指定史跡となった。建物は木造の大手門の遺構などが残るのみで、全体像は伝えられた陣屋の絵図などで想像するしかないが、土塁・堀・建物跡の造成地は、今日でもその痕跡を明瞭にとどめている。また、陣屋の見張り台として機能していたち思われる西北方の山頂部には、日本海側には稀少なチャシ(川下チャシ)がある。JR函館本線ほか札幌駅から車で約110分。