日本歴史地名大系 「庄原村」の解説 庄原村しようばらむら 広島県:庄原市庄原村[現在地名]庄原市本(ほん)町三上(みかみ)郡の北西部に位置し、村のほぼ中央を西城(さいじよう)川が西流し、川の北側は山と谷あいの地で、南側は河岸段丘上の平坦面が主要部分をなす。東は宮内(みやうち)村、北西は川手(かわて)村と接し、西は戸郷(とごう)川を境に恵蘇(えそ)郡三日市(みつかいち)村と接する。西城川北岸に山王山(さんのうやま)古墳、南には瓢山(ひさごやま)古墳をはじめとし、石塔(せきとう)古墳、狐谷(きつねだに)古墳群、石塔上(せきとうかみ)古墳群(方形墳を含む)その他があり、早くから開けた地と思われる。中世には永江(ながえ)庄の北部に位置した。西城川北岸の現在柳原(やなばら)と総称される辺りが永江庄の中心地であったと思われ、字橋本(はしもと)付近は政所の所在地と推定される。地(じび)庄の地頭山内氏は、南北朝内乱期以来永江庄にも勢力をのばしたが、天文一八年(一五四九)には丑寅(うしとら)神社を重修し、宝蔵(ほうぞう)寺を祈願所として保護するなど、その支配に力を注いだ。 庄原村しようばらむら 島根県:簸川郡斐川町庄原村現荘原町(しようばらまち)・上庄原に所在した中世の所領。所領開発と安定化により新たな所領単位として認められたと考えられる。「親元日記別録」の文明八年(一四七六)八月二一日条に幕府奉行人飯尾清房の所領としてみえる。清房は明応五年(一四九六)には幕府御料所朝山(あさやま)郷(現出雲市)の代官としてみえるが(同年四月二三日「室町幕府奉行人奉書」朝山家文書)、当村代官妙光院玄覚から借りた三二貫文の返済に文明六年の年貢を充てたが、玄覚が借用状を返さず、なおも借銭の返済を求めることを幕府に訴えている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by