川手村(読み)かわてむら

日本歴史地名大系 「川手村」の解説

川手村
かわてむら

[現在地名]庄原市川手町

蛇行する西城さいじよう川の右岸に位置し、村域の中心部はその氾濫原にある。西と南は西城川に面し、東から北はなだらかな山地が連なる。村名も川との深いかかわりより生じたものと思われ、川寄りの地に沼田ぬまた地名が残り、往古地形が推測される。三上みかみ郡に属し、北は恵蘇えそ川北かわぎた村。

村域北部には小坂谷おおさかだに古墳平等寺谷びようどうじだに古墳群があり、早くから開かれた地と思われ、村内に甲代こうじろの地名があるところから、「和名抄」所載の三上神代こうじろ郷の地にあたると考えられている。


川手村
かわてむら

[現在地名]伊那市大字美篶みすず 上川手かみかわて下川手しもかわて

三峰みぶ川の右岸氾濫原に発達した村で大島おおしま村の西にあたる。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は上、村高は「弐百九拾九石一斗九升一合 川手」とみえる。天保五年(一八三四)の信濃国郷帳には川手村一村となっているが、江戸時代上伊那郡統治概要表によると上川手・下川手・青島の三ヵ村に分れていた時代もある(上伊那誌)

上川手の裏川原うらかわはらに天伯大神社があり、通称天伯様、祭神は大棚機姫命。縁起は応永年間(一三九四―一四二八)に大洪水があり、片倉かたくら(現上伊那郡高遠町藤沢)の天伯社が流され、川手村と対岸の桜井さくらいの岸に漂着したので桜井では平岩ひらいわに、川手では裏川原に社殿を造って祀ったのが始まりといわれている。


川手村
かわてむら

[現在地名]吉田村川手

東は斐伊川中央を境とし仁多にた(現木次町)、西は神代こうじろ(現三刀屋町)、南は深野ふかの村・上山うえやま村。元禄十年出雲国郷帳では高一九〇石余、寛文四年(一六六四)の本田高一八七石余・新田高七斗余。寛政四年(一七九二)の飯石郡中万差出帳(県立図書館蔵)によれば高一五〇石余、田五町九反余・畑八町二反余、家数四九・人数二〇六、牛四一・馬二、御役目屋敷一二軒・御蔵一ヵ所があり、年寄・下役人が置かれ、ほかに上大工二人、油座一軒・紙漉二二軒・酒屋一軒、横渡舟一艘があり、斐伊川和紙の生産が盛んであった。


川手村
かわてむら

[現在地名]稲武町川手

名倉なぐら川を挟んで押山おしやま村の対岸に位置する。天正一八年(一五九〇)太閤検地を受けたと伝える村。このときの反別六町四反余・高七六石余(北設楽郡史)。幕末の戸口は四二戸・二二一人、村高九〇石余(同書)

現在の川手真弓かわてまゆみ発電所近くの小尾根先端に川手城跡がある。八条女院領尾張の山田やまだ庄司の流れをくむ山田頼範の拠ったところと伝える。


川手村
かわてむら

[現在地名]作手村高松たかまつ

小林こばやし村の北、ともえ川に沿って集落が点在する。寛永郷帳には「河手村」と記す。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年から幕府領、正徳四年(一七一四)に二千石の旗本中根宇右衛門正包領となり幕末に至る。当村は裏雁峯うらかんぼうへの入会権をもっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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