廃仏棄釈(読み)はいぶつきしゃく

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

廃仏棄釈
はいぶつきしゃく

江戸時代から近代にかけての仏教排斥思想。この思想は大別して二つの時期がある。一つは朱子学の封建倫理の立場からの廃仏思想で、論旨は〔1〕神仏習合を否定し、神と仏を区別する、〔2〕寺が檀家(だんか)制度を利用し民衆より収奪することを批判し、仏教本来の救済思想に戻す、〔3〕反権力的思想をもつ日蓮宗不受不施(にちれんしゅうふじゅふせ)派などの宗派を抑える、などである。論客は藤原惺窩(せいか)、林羅山(らざん)、熊沢蕃山(くまざわばんざん)ら。その思想の影響は、幕府では1665年(寛文5)「諸宗寺院法度(はっと)」「諸社禰宜神主(ねぎかんぬし)法度」に現され、藩では1666年会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)、水戸(みと)藩主徳川光圀(みつくに)、岡山藩主池田光政(みつまさ)らの寺院整理政策、一村一鎮守制の実施に具体化された。三藩ともほぼ半数の寺が破却、神仏習合は否定されている。この段階では神仏を分離することに意が注がれた。
 これに対しもう一つは幕末から明治維新にかけての廃仏棄釈で、それは国学、水戸学の「敬神廃仏」の思想による。その代表として天保(てんぽう)年間(1830~44)の水戸藩徳川斉昭(なりあき)の廃仏棄釈がある。このとき藩は190か寺を破却し、領内寺院から撞鐘(どうしょう)、半鐘、鰐口(わにぐち)などを提出させ大砲の材料とした。また寺請(てらうけ)制度を廃止し神道請(しんとううけ)にかえ、村ごとに氏子帳をつくらせた。ほかに仏教的色彩の強い年中行事も廃止させた。このような動きは幕末には全国各地の国学思想が強い所でも小規模ながら行われている。廃仏棄釈政策は1868年(明治1)政府の布達により全国で行われ、多くの寺が破却、仏像・仏具などの文化財が消滅した。[圭室文雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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