江戸前期の経世家、儒者。名は伯継(はくけい)、字(あざな)は了介(りょうかい)、蕃山は号。別に息游軒(そくゆうけん)、不敢散人、不盈(ふえい)散人、有終庵主などと号す。元和(げんな)5年京都に生まれる。1634年(寛永11)岡山藩主池田光政(いけだみつまさ)に仕えたが4年後致仕(ちし)し、祖母の実家のある近江(おうみ)桐原(きりはら)(現、滋賀県近江八幡(はちまん)市)で学問に励み、当時近江小川村(現、高島市安曇川(あどがわ)町上小川)にいた中江藤樹(なかえとうじゅ)に学んだ。1645年(正保2)ふたたび岡山藩に仕え光政側近として活躍、番頭(ばんがしら)3000石に進んだ。1657年(明暦3)病弱を理由に職禄(しょくろく)を養嗣子(ようしし)政倫(まさとも)(1649―1714。池田光政三男、のちの池田輝録(てるとし))に譲り致仕。その後京都などで公武上層の人々と交遊しつつ、講学・著述に専念、『集義和書(しゅうぎわしょ)』『集義外書』(1709)をはじめとする多くの著作を著す。1687年(貞享4)『大学或問(わくもん)』等による幕政批判のため幕府に疎まれ、下総(しもうさ)古河(こが)(茨城県古河市)に幽囚の身となり、元禄(げんろく)4年8月17日古河城内に没した。享年73歳。その墓は現在茨城県古河(こが)市大堤の鮭延寺(けいえんじ)にある。
蕃山の儒学は朱子学と陽明学の折衷的なものであり、老子の影響もみられる。神道、和学にも造詣(ぞうけい)が深く、『源氏物語』の特色ある注釈書『源語外伝』も著している。彼は、兵農分離に基づく幕藩体制下の武士がしだいに商品経済にからめとられていく状況に強い危機感を抱き、武士の土着、参勤交代の緩和などを主張した。その現状批判的な主張は後の経世家たちに少なからぬ影響を及ぼした。
[佐久間正 2016年5月19日]
『『日本思想大系30 熊沢蕃山』(1971・岩波書店)』▽『『増訂 蕃山全集』全7巻(1978~1979・名著出版)』▽『牛尾春夫著『熊沢蕃山 思想と略伝』(1968・第一学習社)』
江戸前期の儒学者。名は伯継といい,息游軒,不敢散人,不盈散人,有終庵主などと号した。蕃山とは備前藩での知行所蕃山(しげやま)村に引退して蕃山了介(しげやまりようかい)と称したことに由来する。生地は京都。武士の出であるが,父も祖父も浪人で,母の父の水戸藩士熊沢守久の養子となり,16歳で備前藩主池田光政に仕えたが,4年で辞し祖母の里である近江桐原に帰り,武士としての自覚から学問に志し,1642年(寛永19)中江藤樹に入門した。藤樹の下で学んだのは4ヵ月だけで,その後は独学であるが,藤樹の思想的影響は大きい。45年(正保2)再び備前藩に帰り,のちには番頭(ばんがしら)として3000石を給せられ,学者としても知られたが,56年(明暦2)落馬による負傷で武事にたえずとして辞職し隠棲した。のち京都に移り公卿と交わったが所司代牧野親成に追われ,老中板倉重矩の仲介で明石藩主松平信之の下に住み,信之について大和郡山,下総古河と居を移した。そして蕃山に好意をもっていたこれらの大名の死後,87年(貞享4)に幕府は処士横議を理由に蕃山を古河に禁固し,そこで死んだ。処士横議とは幕府がなすべき政策21ヵ条について論じた《大学或問(わくもん)》をさすのであろうが,その中の幕政に対する批判的議論よりも,当時〈心学〉とよばれたその学問を介して公卿や浪人が集合することを幕府が警戒したことが,蕃山に対する圧迫の原因であろう。蕃山の思想の中心は〈時・処・位〉論,すなわち状況に即して事を行うべしと説くところにあり,それを日本の国情に即して論じたところに特色があるといえるが,中国を基準としてそれを日本の現実に適用しようというのが基本姿勢であったから,あまり現実味のある議論とはいえない。また思想的には藤樹の《翁問答》をうけついだもので独創性は稀薄である。主著は《集義和書》《集義外書》《三輪物語》《大学或問》などで,《蕃山全集》6巻にまとめられている。
執筆者:田原 嗣郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(宮崎道生)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1619~91.8.17
江戸前期の儒学者。父は牢人野尻一利。名は伯継(のりつぐ),字は了介,通称左七郎のち次郎八・助右衛門,号は息游軒。隠居後,知行地蕃山(しげやま)(現,岡山県備前市)の名をとり蕃山了介と称した。京都生れ。8歳で母方の祖父,水戸藩士熊沢守久の養子となり,16歳で岡山藩主池田光政に仕えた。一時職を辞して中江藤樹の門に学ぶが岡山藩に戻り,光政の信任を得て花畠教場の中心となって活動した。1654年(承応3)の旱魃(かんばつ)・大洪水に続く飢饉では光政を助けて救民に尽力した。しかし名声があがるにともない,幕府や藩内外の中傷をうけ39歳で隠居。晩年,幕府に対する意見書「大学或問(わくもん)」で禁錮に処され,下総国古河で没。著書はほかに「集義和書」「集義外書」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…岡山平野では流路が幾度か変遷した形跡があるが,岡山に城下町が形成され,宇喜多秀家の代に天守閣の下を流れるよう変更されてからは固定した。また1654年(承応3)の洪水の際熊沢蕃山の献策により津田永忠が69年(寛文9)から翌年にかけて放水路を建設した。これは百間川と呼ばれ,岡山市中島と竹田の間で旭川から荒手堤を越えて分流して南東流し,操山東側から南下して沖新田南端で児島湾に注ぐ(長さ12.9km,幅200~300m)。…
…彼は72年(寛文12)に致仕した後も岡山城西の丸にあって,実に前後50年にわたって藩政の確立を主導した。賢母と師傅(しふ)に恵まれ,熊沢蕃山などの儒臣について儒学などの修業に努め,体得した仁政の理念を藩政に貫徹することをはかり,質素倹約の〈備前風〉を普及した。そのおもな業績をみよう。…
…その内容は当時行われていた中国の重要産業を網羅し,それらについて知識人向けの解説を行ったものである。 朝鮮でも李朝時代に〈実事求是〉をスローガンとする実学派があったが,こうした大陸からの影響もあって,日本でも17世紀には熊沢蕃山が儒学を単なる名分論ではなく,利用厚生論として発展させ,18世紀には富永仲基や大坂の懐徳堂派の学風が町人的実学を進め,さらに皆川淇園,林子平,工藤平助,本多利明,佐藤信淵などの開物思想家が輩出した。それは信淵によれば,〈国土を経営し,物産を開発し,境内を豊饒にし,人民を蕃息せしめる業〉という国土開発・産業開発の事業を展開させようとする考え方であった。…
…それとともに,ロシアの南下を先ぶれとする西洋列強による〈外圧〉への評価と対応も,敏感な経世家には早くからみられた。
[先駆――蕃山,徂徠など]
熊沢蕃山(1619‐91)と荻生徂徠(1666‐1728)は,それぞれの異質性はありながら,経世済民論の先駆者とみてよい。君臣関係はもとよりいっさいの人間の道徳的関係を〈自然の理〉として絶対化し,富への欲望を封建道徳ときびしく対立させた官製の朱子学に対し,蕃山は〈仁政ヲ天下ニ行ハン事ハ,富有ナラザレバ叶ハズ〉〈人君仁心アリトイヘ共,仁政ヲ不行バ徒善(むだ)也〉と述べ,富・人君のあり方を既成の規範から解放した。…
…江戸前期の儒者熊沢蕃山の主著。1657年(明暦3)岡山藩を致仕した後,京都,吉野山を経て明石に隠棲して著述したもので72年(寛文12)に初版11冊が板行された。…
…その子鵞峰は《本朝通鑑》を著し,神代史の合理的叙述に努めた。朱子学の林家学派に対し,陽明学派の熊沢蕃山は〈神代には神道といひ,王代には王道といふ,其実は一也〉(《集義外書》巻一)と神道王道一致論を説いた。朱子学派ではあるが広く地誌・教育・経済の領域に業績を残した貝原益軒は神社史の考証とともに神儒併行論を主張した。…
… なお書名の〈神道大意〉とは神道の大体の意味を簡単に述べた書との意味であることから,他にも同名の書が多い。すなわち吉田神道内でも兼夏,兼敦以下の同名書があり,垂加神道に属する玉木正英,若林強斎のそれ,復古神道派の富士谷御杖,権田直助(ごんだなおすけ)らのそれ,儒家神道の熊沢蕃山のそれ,雲伝神道の天如のそれと多くあり,またそれらの注釈書も多く出されている。吉田兼俱ほか吉田神道者のそれは,吉田叢書第1編に所収(1940年吉田神社編)。…
…農業も盛んで,ハクサイ,キュウリなどの野菜生産が多い。鮭延(けいえん)寺には江戸前期の儒者熊沢蕃山の墓がある。【千葉 立也】。…
…江戸前期の儒者熊沢蕃山が1687年(貞享4)ころに著作したもので,幕府がなすべき政策を21ヵ条にわたって論ずる。2巻。…
※「熊沢蕃山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新