鎌倉時代美術(読み)かまくらじだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「鎌倉時代美術」の意味・わかりやすい解説

鎌倉時代美術 (かまくらじだいびじゅつ)

武士の政権が鎌倉の地に存在した1180年代から1330年代の約150年間は,美術史の上でも一時期を画するものと考えられている。その基調をなすものは前代の公家文化に対する武士の文化である。しかし鎌倉幕府が多分に古代制度に依存していたように,文化も初めは京都中心的であり,やがて京都と鎌倉という二元性を示す時期を迎え,さらに一般化,地方文化の成立という段階に至ることが想定できる。この間,武士の性格を反映した現実直視の傾向が大きく造形美術に影響し,できるだけあるがままに事物を写そうとする写実主義が主導的となる。これには平安時代の繊細な形式主義への反動,古典的な写実様式を完成させた奈良時代への復古,そして前代末期から顕著となった日宋貿易にともなう中国宋・元美術の刺激などが影響している。この現実的な写実の傾向は美術の一般化,通俗化を進め,理想像の追求という一面をつねにもつ宗教美術の分野では,その質を低下せしめる結果となった。しかし技術的にはあらゆる分野で材料と技法の多様化が見られ,高度な発展を遂げている。

武士の登場は平安時代の半ばにさかのぼるが,彼らの文化への寄与は源平抗争期ころからと考えられる。地方豪族の発願になる粗野で力強い仏像彫刻が見られるようになり,中央でもようやく定朝じようちよう)様の温雅な様式からの脱皮を意図する作品が出てくる。1151年(仁平1)造立の奈良長岳寺の阿弥陀三尊像に見る量感の表現はこれまでに求められないもので,特に玉眼の使用が注目される。玉眼は鎌倉時代に顕著な技法であって,この像が現存最古の例である。この様式が奈良時代様式への復古なのか,また新しい中国宋代様式の影響なのか議論の分かれるところである。なによりもこの像が鎌倉彫刻を主導する康慶や運慶の様式に通ずる点が重視されよう。1176年(安元2)の奈良円成寺の大日如来像(運慶作)や1177年(治承1)の静岡瑞林寺の地蔵菩薩像(康慶作か)などが遺品として続く。しかし慶派といわれる彼らの活躍はまだこの時期には顕著でない。京都の公家社会の造仏は明円を頭とする円派,院尊をいただく院派によって占められていた。だがその明円作の大覚寺五大明王像(1176)には,伝統的なおだやかさのなかに,次代に特徴的な写実の風をもうかがうことができる。

 仏画の世界でも同様な傾向が認められる。醍醐寺《五大明王像》や和歌山蓮華三昧院《阿弥陀三尊像》には伝統色が濃いが,醍醐寺《閻魔天像》は彩色法や描線に新しい変化をあらわし,1191年(建久2)の東寺《十二天屛風》(宅磨勝賀作)にいたって宋風の顕著な線描主義が出現する。高山寺《仏眼仏母像》も新しい様式の代表作であるが,この高山寺が宋風摂取の一拠点であり,そこには水墨画の導入もありえたとする説も出されている。

11世紀以来の浄土教の発展にともない数多くの来迎図が描かれ,これと関連して二河白道図や六道絵がつくられ,また垂迹(すいじやく)画が仏画から派生して盛行する。そこにはこれまでと趣を異にする説明的要素や動的な表現,実景描写などが入りこんできて,鎌倉時代らしい展開を示すが,それらの代表的な作品が多く生まれるのは13世紀であり,12世紀末の時点では六道輪廻を絵解きした形の絵巻物《病草紙》《餓鬼草紙》《地獄草紙》などがあげられる。絵巻には伝統的な大和絵の筆法に新しい要素が加わって,この時代に多岐多様な発展を見せるが,遺品の上でその特色を明らかにするのは次の13世紀である。この時期の絵画では,肖像画における似絵(にせえ)の形成が注目される。人物の面貌を素描風にとらえる似絵の特色は,この時代の写実主義の傾向をもっともよく示すもので,それまでの肖像画とは一線を画している。その始祖といわれる藤原隆信の作に擬せられる神護寺の伝源頼朝・平重盛・藤原光能像の3幅は,伝統的な肖像画の範疇にあって,似絵の本質的な速写性は欠如しているにもかかわらず,その面貌に見る個性表現の新しさは似絵との関連を思わせる。これが鎌倉初頭の肖像の世界に出現した意義は大きい。

 これらの絵画に見られる動向はまだ京都中心的であった。新興都市鎌倉にできた最初の大寺というべき勝長寿院は1185年(文治1)に落慶したが,その作画のために京都から宅磨派の絵師為久を呼び寄せているのもその一例である。しかし同寺の造仏のためには京都の円派や院派仏師ではなく,奈良から慶派の成朝が下った。彼らの作品はのこっていないが,為久の画風は同派の勝賀によって,成朝のそれは運慶によって想像され,いずれも当時の新風を目ざすものであったことがわかる。そこに鎌倉幕府の文化受容の態度がうかがえよう。86年北条時政の発願になる阿弥陀三尊などの諸像が伊豆の願成就院に,89年には和田義盛夫妻を檀越(だんおつ)とする群像が三浦半島の浄楽寺に,いずれも運慶によって造立されたが,それらの作風がいかにも東国の気風に合った新鮮な力強さを示している点が注目される。おそらくこれが南都復興時の慶派の作風を主導したであろうし,以後の鎌倉地方彫刻の基礎となったのである。絵画における宅磨派はのちに仏師としてもこの地方を中心に活躍する。

1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。90年(建久1)に大仏殿が上棟,96年には大仏をめぐる脇侍や四天王などの巨大な木像群と同種の石像群がつくられた。木像群は当時奈良に本拠をおく慶派の仏師,康慶やその息子運慶,弟子快慶らの手になり,石像群は陳和卿の率いる宋人石工たちの製作である。これらの諸像は再度罹災していまはないが,そこに示されたと想定される中国渡来の技術や様式の影響は,東大寺南大門にのこる石造獅子一対や97年の山口阿弥陀寺鉄宝塔をはじめとする重源ゆかりの社寺に伝存する鋳銅,鋳鉄製品によってうかがうことができるし,慶派の作家たちはこれと前後して製作した多くの遺品によって,鎌倉彫刻の本流を形成したことを証明している。1189年(文治5)康慶一門の手になる興福寺南円堂諸像から1203年(建仁3)運慶と快慶共作の東大寺南大門金剛力士像,1208-12年(承元2-建暦2)運慶一門による興福寺北円堂諸像にいたる作風の変遷は,まさにこの時代の堅実な写実主義のもとに,量感,力感,動感などの追求が練達し,完熟する様相を示している。興福寺の場合,当時も公家の代表として京都の伝統的文化の担い手であった藤原氏を背景とした復興であるから,当初採用された仏師には円派,院派の者たちが多かった。元来慶派は興福寺の仏師であったが,当時これを一手に成すほどの勢力はなかったのである。彼らが時代の表面に躍り出られたのは,東大寺という国家的規模の寺で,鎌倉幕府をはじめとして広く世間の合力のもとに行われた前記大仏をめぐる巨像群の造像に成功したことによるであろう。

1210年代は将軍実朝の貴族趣味やこれにつづく京都よりの公家将軍の下向などがあって,公家文化の鎌倉流入がさかんとなる。この時期から北条氏が得宗(とくそう)体制をかため,政治,経済の上でも全国的に安定をみた13世紀の半ばまで,文化は公武の差を縮めていった。1221年(承久3)の承久の変はこの文化の主導権の逆転期でもあり,これを転機に鎌倉美術は完成期に入るといえるかもしれない。彫刻界では運慶や快慶からその子や弟子たちの世代に入る。康勝が一瞬の動態を写生的にとらえた空也上人像(六波羅蜜寺)を,定慶が宋代彫刻の過度の写実をとり入れた聖観音像(鞍馬寺)をつくったのはこの時期である。なかんずく運慶の長子湛慶は運慶の力動感あふれる存在性と快慶の絵画的あるいは説明的ともいえる写実とを調和させた様式を確立し,1251-54年(建長3-6)に蓮華王院本堂(三十三間堂)の復興造仏を成し遂げた。その本尊の千手観音像と二十八部衆像の一群はまさに一時期を画するものである。このころ鎌倉の地では高徳院阿弥陀如来像(鎌倉大仏)がその巨体を銅鋳されていた。それは時の幕府を中心に庶民の力を集めたものであったろうし,様式的には運慶様を基に新しく直輸入された大陸様式を加えたもので,これもこの期の記念碑的造像である。

 こうした鎌倉時代の現実的ないし写生的と特徴づけられる写実は,絵画表現の種々の分野にも顕著に示される。仏画の世界では禅林寺山越阿弥陀図》や知恩院《阿弥陀二十五菩薩来迎図》,聖衆来迎寺《六道絵》など,教理上の主題とは別に,背景をなす風景描写にそれが歴然と見られよう。特に〈早来迎〉と称される知恩院の来迎図における速度の表現は来迎の実感を把握しえていて,この時代らしい。垂迹画神道美術)もまた社寺の景観が克明に描かれた点でここにとりあげられよう。1300年(正安2)にくだるが湯木家の《春日宮曼荼羅図》(観舜作)に見る春日社の景は抒情的でさえあり,根津美術館の《那智滝図》はこの傾向の頂点にある作品といえよう。肖像画の世界でも高山寺《明恵(みようえ)上人像》は樹上坐禅像といわれるように山中の樹木の描写が大きく,それがむしろ人間明恵への親近感をいだかせる。明恵自身の描写も似絵風で,決して理想化された形式的なものではない。似絵では藤原隆信の子信実が1221年(承久3)に描いたと考えられる《後鳥羽天皇像》(水無瀬神宮)やその子専阿弥陀仏の《親鸞上人像》(鏡御影。西本願寺)などがこの期を飾っている。

 工芸の分野でも,前期までの仏具や調度,武具などは平安時代以来の伝統を継承する傾向がつよかったが,やがてその文様は写実的に細かく,ときに動的なものがあらわれてくる。手箱などの器物の形はかさ高で角ばる傾向を示し,鏡は鏡胎が厚く,縁も太くなり,舎利塔などの装飾は技巧を誇示するように過度なものがあらわれた。滋賀神照寺の銅透彫華籠や鎌倉鶴岡八幡宮の籬菊螺鈿蒔絵硯箱にはまだ前代の気風がのこっているが,奈良西大寺の銅透彫舎利塔や梅双鶴鏡,伊豆三嶋大社の梅蒔絵手箱,永青文庫の時雨螺鈿鞍などは当代の技巧を代表する遺品である。

南都復興はこのころまでその事業を継続していたが,そればかりでなく,奈良時代以来の旧仏教にふたたび生気をふきこむ効果をもたらしたことも見逃せない。弥勒信仰や釈迦崇拝の熱烈な思想が興福寺や東大寺の僧を中心に復活し,唐招提寺や西大寺をはじめ地方の同系統の寺院に伝播していった。これにともなう美術作品の担い手はおもに奈良地方に残留していた作家たちと見られ,彫刻では自らも敬虔な仏教者であったいわゆる善派の人たちが著名である。特に西大寺叡尊との関係が指摘され,同寺の愛染明王像(1247,善円作),清凉寺式釈迦像(1249,善慶作),叡尊像(1280,善春作)など,中・後期の代表作を生んでいる。奈良の地は都が京都に移って以来ずっと独特の保守性を堅持してきており,その根底には奈良時代以来の美術の伝統が継続している。慶派の様式形成過程にはこうした土壌における復古的態度がうかがえるし,善派にはもっと守旧的なものさえ見られる。絵画の分野でも同様のことが看取できよう。従来平安後期の作品と考えられていた法華寺の《阿弥陀三尊・童子像》がこの時期の制作ではないかといわれだしたのも,上記のような考え方に関係している。1213年(建保1)の浄瑠璃寺《吉祥天厨子扉絵》(東京芸術大学)はその本尊である吉祥天像とともに,当時の奈良文化圏独特の保守性を示している。また工芸の分野でも,釈迦信仰のあらわれとして舎利を安置するさまざまな形態が考案された。西大寺や唐招提寺,海竜王寺にのこる幾種類もの銅製舎利塔は,まさに鎌倉中期の代表的金工品である。

13世紀後半は社会全般からみても,蒙古襲来を契機に京畿から東国への人の動きがさらに西国の端まで達し,彼らの視野の広まりは美術工芸にも影響したと思われる。伝存する主要な絵巻の多くがこの時期に制作されていて,《華厳五十五所絵巻》(東大寺)のような経典説話,《紫式部日記絵巻》(五島美術館等)のような物語絵,《蒙古襲来絵詞》(御物)のような合戦絵があり,北野天満宮などの社寺縁起絵と,1299年(正安1)制作の《一遍聖絵》(円伊作。京都歓喜光寺等)に代表される高僧伝絵は特に盛行した。遊行僧一遍の足跡が当時の日本のほぼ全域にわたっていることは著名だが,この絵の作者は各地の風景と民俗を忠実に写している。絵画の技法はだいたいにおいて線描本位の自由な筆致のものから彩色の豊かな細密画風に移行するが,1309年(延慶2)の《春日権現験記》(高階隆兼作。御物)がその頂点としてあげられよう。

 また肖像においては,彫刻の重源像(東大寺)や絵画における《法然像》(二尊院)のような高僧像の名作を前期に生んだが,この時期も前記の叡尊像や《花園天皇像》(1338,豪信作。京都長福寺)など作品が多く,その作柄の高さは一般の仏教美術の水準をしのいでいる。《花園天皇像》はまた似絵の伝統的画法に頂相(ちんそう)の筆意を加えたものとして注目されている。

いわゆる鎌倉新仏教が文化,特に造形美術の上に影響を及ぼしだすのは13世紀後半といってよいであろう。しかし旧仏教のしきたりを排し,実践的で庶民的な色彩のつよい新仏教にあっては,旧派におけるほど美術に対する影響を考えにくい。そのなかでもっとも顕著なものは臨済禅における頂相画であろう。これは各禅寺にあるべき性格のもので,遺品も多いが,1271年(文永8)の《蘭渓道隆像》(建長寺)をその代表としてあげておく。その画法は中国舶載画に拠る精密な写実のものであるが,坐形が一定しているのでそこに様式化がはかられ,しだいに面貌のみの個性描写が進んでいく。彫像においても同様で,京都東福寺の蔵山順空像がその典型である。この傾向は似絵の伝統とも関連するかと思われ,鎌倉明月院の上杉重房の木像や横浜称名寺の北条実時等の画像のような俗人像の表現とも一脈通ずるのである。

 禅宗渡来にともなう中国美術の影響はこれにとどまらない。室町時代にかけて盛行する水墨画もその日本への影響を時代的にもっと早くに考える説が近年出されている。工芸では多数の舶載品の刺激によって,織物の模倣や瀬戸窯に代表される新しい陶器の生産が広まったことが特筆される。後世鎌倉彫と称される木工芸の技法も,中国の彫漆を範とすることが指摘され,その祖型ともいうべき牡丹に獅子を浮彫りした漆塗りの須弥壇が建長寺食堂(じきどう)にのこっている。こうした新たな中国文化の影響をもっとも感じさせるのは鎌倉の地であろう。前記の鎌倉大仏をはじめ,1276年(建治2)の称名寺の弥勒菩薩像に元代彫刻の直模的な趣を認めることができ,以後この地を中心に独特の土文装飾や自由な姿態の彫像があらわれる。これらの現象は,鎌倉の地の文化的後進性にもよるといえようが,地方に独自の文化形態が生まれてくるのがこの時期の一つの特色であろう。
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鎌倉時代の建築は治承の乱(1180)による兵火で焼失した南都諸寺の復興で,新しい幕を開いた。そのうち興福寺は主として藤原氏一門によって再建が進められ,様式は従来の和様の伝統を踏襲した保守的な構築にとどまった。東大寺では大仏殿をはじめ伽藍規模が巨大なため,資材,資金の調達に国内の総力の結集を必要とし,源頼朝の援助のもとに勧進上人俊乗坊重源の指導で再建された。重源は宋人技術者を採用し,資材の節約と工法に新工夫を加えた大仏様(天竺様)を導入した。大仏様は中国南部の地方様式を源流とする豪放な様式で日本中世の建築にひき起こした波紋は大きいが,東大寺南大門(1199),浄土寺浄土堂(兵庫,1192)など,重源の関係した建築に実施されたにとどまり,普及性を欠いたといえる。

 重源と同世代の僧栄西は前後2回の入宋で禅を学び,日本に禅宗を紹介して布教に努め,博多,鎌倉,京都に禅寺を創建し禅宗興隆の基礎をつくった。栄西以降,禅を学ぶ入宋僧があいつぎ,中国人禅僧の来日も増えた。中期(14世紀半ば)には,鎌倉に建長寺,円覚寺,京都に東福寺,南禅寺が創建され,中国禅寺の風を模倣した伽藍が出現した(禅宗寺院建築)。禅寺特有の伽藍の構成と建築の様式は宋代中国の建築に範をとった技術と意匠からなり,これは禅宗様(唐様)と呼ばれた。禅宗の発展とともに禅宗様は各地に広がり,在来の和様の技術,意匠の改良工夫にも大きい影響を与えた。

 和様に新しく大仏様,禅宗様が加わって鎌倉時代の建築には様式の多様化と競合による建築自体の個性化がみられ,また京都以外の地方で建築活動が活発化する。東大寺および興福寺の再建・復興は南都諸寺の教学と堂塔との復興に大きな刺激を与え,法隆寺,薬師寺,唐招提寺,元興寺,十輪院,福智院,新薬師寺,秋篠寺,不退寺,当麻寺,海住山寺などこの期に造立・改築された遺構は多い。また京都を中心に前代に早く成立した天台・真言両系の密教寺院が鎌倉時代には地方へ進出し,在地の守護や地頭の勢力とむすび地方密教寺院が多く造立された。これらの寺院は本堂を主とし三重塔あるいは多宝塔を組み合わせた伽藍構成をとる。本堂は五間堂が大半を占め,堂内を内陣と外陣に区分し,内陣は後方に寄せて仏壇を設け,壇上の厨子に本尊仏を安置し,祈禱・修法の道場にあて,外陣の在俗信徒の祈りの場と厳重に仕切っていた。本堂内外の様式は,(1)和様で統一したもの,(2)和様を基本とし細部の装飾に大仏様,禅宗様の手法を導入したものがあり,(3)さらに進んで構造・架構に大仏様,禅宗様を採用したものも後期に出現している。この本堂遺構は初期のものは少数で京都周辺に限られるが,中期以降には近畿,中国,四国に広がり,関東,中部両地方にも少数であるが造立されている。上記の分類による遺構例は,(1)では大報恩寺本堂(京都),霊山寺本堂(奈良),明通寺本堂(福井),(2)では長弓寺本堂(奈良),(3)では浄土寺本堂(広島),明王院本堂(広島),本山寺本堂(香川),孝恩寺本堂(大阪),鑁阿(ばんな)寺本堂(栃木)がある。

 神社建築では,本殿の遺構は滋賀,京都,奈良に集中していて,他地方では少ない。本殿の形式分類では流造(ながれづくり)が大半を占め,特に一間社が過半を占める。三間社流造は苗村神社(滋賀),宇治神社(京都),住吉神社(兵庫),神谷神社(香川)の4例である。春日造本殿は基本形より発達した隅木入春日造が出現している(山梨熊野神社)。特殊な例では入母屋造本殿(滋賀御上神社),切妻造本殿(滋賀天皇神社)がある。様式の面では和様を保守したものが大半を占めるが,大仏様,禅宗様の影響もみられ,長保寺鎮守堂(和歌山)はその早い例である。本殿に付属した拝殿遺構がのこされているのは当代からで,宇治上神社拝殿(京都)は住宅風の優美な姿で知られ,石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿(奈良)は割拝殿の好例であり,熊野神社長床(ながとこ)(福島)は規模の大きい特殊例である。

 住宅遺構は現存していないが,記録や絵図によって時代の傾向を知ることができる。政治,経済,文化の中心として京都は平安京の条坊制都市から京域を縮小して変貌の度を増し,二条以南,五条以北の下京を中心に一条以北の上京が新市域を形成する途上にあった。平安京の中枢部をつくる大内裏は当代初期の被災後再建をやめ,里内裏が恒常化した。里内裏のうち,閑院は1213年(建保1)の再建を機会に紫宸殿,仁寿殿,清涼殿など正規内裏の制の一部を採用した准内裏に仕立てられ,鎌倉時代および室町時代を通じて内裏の範例になった。公家住宅は平安時代の寝殿造の伝統をうけついだが左右非対称構成が定形化し,家格,地位の別が住宅規模に反映した。史料にのこる代表的邸宅例に冷泉富小路殿,大炊御門万里小路殿,常盤井殿,持明院殿,伏見殿,亀山殿の諸御所,摂関家の一条殿,近衛殿,権勢公卿西園寺家の今出川殿,北山殿がある。
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