北アジア諸民族の間で行われた男子の髪型。「薙髪(ちはつ)」ともいう。民族と時代によりその形には若干の相違がある。清(しん)朝を建てた満州民族の場合は、頭の周囲をそり(薙髪)、後頭部に残した髪を編んで(弁髪)長く背後に垂らす形で、西洋人にピッグ・テイルpig tailとよばれた。この満州民族の風習である弁髪を漢民族に強制したのが「薙髪令」である。1644年に北京(ペキン)に入り中国全土の支配を目ざした清朝は、漢民族との妥協の諸政策も行ったが、一方では満州人政権への服従の証拠として薙髪令を出した。とくに全土平定の目安のついた45年以後は「頭を留めれば髪を留めず、髪を留めれば頭を留めず」といわれたほどに弁髪を強制し、漢民族はこれを夷狄(いてき)の風習と嫌って自殺したり、僧侶(そうりょ)や道士になった者も少なくなかった。しかし、やがてこの風俗は漢民族に定着し、清末には中国の風俗のようになった。19世紀後半に満州人政権打倒を呼号した「太平天国」では、弁髪をやめてその抵抗の証拠としたので、清朝側ではこれを長髪賊、髪匪(はっぴ)などとよんでいる。
[細谷良夫]