髪形(読み)カミカタチ

デジタル大辞泉 「髪形」の意味・読み・例文・類語

かみ‐かたち【髪形/髪容/髪貌】

髪のかたち。かみがた。特に、髪を結ったようす。髪の結いぶり。
頭髪と顔だち。

かみ‐がた【髪形/髪型】

切ったり結ったりして整えた髪の形。かみかたち。ヘアスタイル

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精選版 日本国語大辞典 「髪形」の意味・読み・例文・類語

かみ‐かたち【髪形・髪貌】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 髪の結い方。髪がた。また、髪を結ったようす。髪つき。
    1. [初出の実例]「誰に見すべき髪かたち」(出典:浄瑠璃・当流小栗判官(1714頃)四)
  3. 髪つきと顔かたち。頭髪と容貌。
    1. [初出の実例]「馬・鞍・随身・舎人・雑色・童のかみかたち、たけ姿まで、かたほなるなくえりととのへ」(出典:増鏡(1368‐76頃)六)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「髪形」の意味・わかりやすい解説

髪形
かみがた

美容、衛生上の立場や、晴、褻(け)の儀式などの生活上の変化に応じて整える、男女の髪の形。有史以前から世界各国の民族は、それぞれ特徴をもった髪形を整えていたことはいうまでもない。しかし、女性が産業界に進出するようになると、生活に密着した軽便さが求められるようになり、生活様式も髪形もおのずから各国の間で似通った形態がとられ、現代に及んでいる。本項では日本の髪形の変遷を概観し、西洋の髪形については「ヘアスタイル」の項で展開する。

[遠藤 武・坪内靖忠]

男性の髪形

古代社会の髪形は、5、6世紀に盛行した人物埴輪(はにわ)から知られる。それ以前のことは、中国の史書『三国志』の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)に被髪をしたことが記されているが、実際の髪形は人物埴輪で知るしかない。それをみると、額の中央から左右に分け、耳のところで8字形に結び留めている。これが古文献でいうところの「みずら」(美豆良)である。これにも「あげみずら」と「さげみずら」の2種類があった。飛鳥(あすか)時代に入り、わが国は中国の文物制度を取り入れ、冠の色によって地位や身分を決める冠位制度が敷かれてから、官吏はみな冠をかぶることになり、髪形は自然にまとめることになった。冠位制度が複雑化して位色制度にかわっても、冠帽を取って露頂生活になるということはなかった。ただ庶民だけは、簡単に束ねて紐(ひも)で留める髻(たぶさ)のような結髪をしていた。公家(くげ)、武家など指導者階級では、冠帽をつけることが普通のことであったから、髪形はそれに都合のいい冠下髻(かんむりしたのもとどり)や烏帽子下髻(えぼししたのもとどり)(一つ髻)が結ばれた。これらの髪形は頭髪全体を百会(ひゃくえ)(脳天)のところでそろえてから髪を切って、紐や元結(もとゆい)で巻き上げる形式をとり、その紐、元結で巻く数や色によっても身分の相違があった。

 武家社会となって、戦乱が長引くようになると頭髪が蒸れるところから月代(さかやき)をあけることになった。しかし、これも戦(いくさ)の終了とともに、月代の毛を伸ばして冠下髻や烏帽子下髻に戻った。武家生活がしだいに安定してくると、公家の有職(ゆうそく)に倣って武家に故実が生まれ、これは室町時代に入って大成する。一方、ふたたび武家同士の争いが相次ぎ、応仁(おうにん)の乱突入後の日夜の争いは、頭髪の蒸れを引き起こす原因ともなり、絶えず月代をあけておく必要に迫られ、月代はだんだんと大きくなり、髪の3分の2以上にもなった。これが契機となって、露頂の風俗が一般化し、後頭部で頭髪をまとめて糸で巻き立てる茶筅髷(ちゃせんまげ)の発生につながるようになった。天正(てんしょう)年代(1573~1592)を一つの境として、露頂と髷のある生活が登場してきた。有名な織田信長が上杉謙信に贈った『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』(上杉神社蔵)には、毛抜きで月代の毛を抜いている、初期の髪結い床(どこ)の姿がみられる。当時の月代は剃刀(かみそり)で剃(そ)るのではなく、毛抜きで抜いた。南蛮僧の日記のなかにもこのことが記されている。

 関ヶ原の天下分け目の合戦で、徳川家康が大勝を収めてから、江戸時代の太平の世が築かれた。封建社会が確立し、貨幣制度が普及し、町人文化が盛んになるにつれて、庶民も、身辺を飾ることに金銭を投じるようになって、髪形にもいろいろの変化がもたらされた。江戸時代初期には、浪人とそれに対抗する男伊達(おとこだて)、つまり町奴(まちやっこ)の間から、唐犬額(とうけんびたい)という独特の髪形が生まれ、また若衆髷、銀杏(いちょう)髷、奴髷、蝉折(せみおり)、野郎髷などが流行した。鬢(びん)では、細い糸鬢、あるいは三味線の撥(ばち)の形をした撥鬢という特殊な形も行われた。江戸中期からは辰松(たつまつ)風、本多、文金風が現れた。ことに根を高くする文金風は廓(くるわ)通いの人たちに好まれ、熱病にかかったように透けた疫病本多、豆本多、だまされた風などの種類があった。江戸末期になると鎖国か開港かの論議に明け暮れした志士の間から、講武所風とか総髪がはやりだし、このほか若殿風あるいは浪人銀杏という髪形が行われた。民間では銀杏髷の全盛期で、大銀杏、小銀杏、それにそり下げ、束ね風、あるいは円朝(えんちょう)髷があった。

 江戸幕府の崩壊、これに伴う明治新政府の樹立によって文明開化となり、ここに西洋風を取り入れた散切(ざんぎり)という髪形が出現した。政府は1871年(明治4)散髪脱刀令を出し、散切の大衆化を図った。ちなみに明治天皇は1873年(明治6)3月20日、散髪脱刀令に伴って自ら散切スタイルになったが、同年のうちに東京に住む男性の75%が右にならえをした。軍人の髪は初めは前五分、後ろ一分の鋏(はさみ)刈りであったが、バリカンが輸入され、これが国産化されるにつれて、日清(にっしん)戦争を境に丸刈りとなった。明治も終わり近くになってバリカンによる職人たちの髪形は、チャン刈り、角(かく)刈りとなった。一般には七分三分の洋髪に始まって、大正から昭和にかけてオールバック、センターパーティング、サイドパーティングなど、外国映画の影響による髪形が流行した。

 第二次世界大戦後にはGIカット(駐留軍兵士のヘアスタイル)が流行し、また、パーマネント・ウエーブの普及により男性の髪形も世界のモードの影響を受けるようになった。とくに日本の理・美容組合(各連合会)が、1964年(昭和39)、CIC(世界・理美容連盟)に正式加盟して以来、世界のヘアモードの発信機関があるパリより、毎年春・夏、秋・冬の2回、ニューヘアラインが発表され、その影響を受けるようになった。また、日本独自のニューヘアラインも理容組合や全国の各技術研究団体から発表されるようになり、男性の髪形もますます多様化、個性化が進んだ。

 一方、スターやタレントのヘアスタイルをまねる傾向も強く、その代表的なものには『太陽の季節』で芥川(あくたがわ)賞を受賞した石原慎太郎(しんたろう)の刈上げスタイル「慎太郎カット」(「慎太郎刈り」ともいう。1956年ごろ)や、1966年に来日したイギリスのロック・グループ、ビートルズの長髪スタイル「マッシュルームカット」、ロックンロールの元祖エルビス・プレスリーのフロント(前髪)を大きく突き出した「リーゼントスタイル」などが、日本の若者に大きな影響を与えた。

 1970年代後半には、長髪にかわってふたたび短髪が流行し始め、俳優清水健太郎の「健太郎カット」や、ショート・ヘアにアイロンで小さなカールをつくる「パンチパーマ」が一世を風靡(ふうび)した。

 1985年にはアイドルグループ、チェッカーズの藤井フミヤのフロントを思いきり遊ばせたヘアスタイルが流行した。以来、若い男性の間ではパーマネント・ウエーブやカラリング(毛染め)などを施したユニセックス(両性的)な髪形が定番となった。1990年代後半には、キムタク(アイドルグループSMAPの木村拓哉(たくや))の長いパーマヘアが人気となった。また、男性髪形の常識や価値観を根底から覆す「茶髪(ちゃぱつ)」「ツンツンヘア」が市民権を得るようになり、プロスポーツ選手やタレントばかりでなく、一般の若者の間にも定着した。

[遠藤 武・坪内靖忠]

女性の髪形

石器時代の土偶は女性であり、その髪形も現代の断髪のような形をしているが、これが古墳時代の髪形とどうつながるかは、今後の研究課題である。古文献のうえでは「魏志倭人伝」に被髪をしたことがみえ、人物埴輪のなかには今日の島田髷の祖型的な形をしたものがみられる。これは前髪、鬢(びん)、髱(たぼ)をとらずに百会(ひゃくえ)で総髪を束ねてから、その髪を後ろや前に折り曲げて中央を紐で結んだ形である。しかし、多くの人たちは『万葉集』に「なびく吾(わ)が黒髪」と歌われた垂髪のようである。

 中国文化を盛んに取り入れた飛鳥・奈良時代になると、唐風に大きく髪を膨らませることも行われたと思われる。だが、平安時代に遣唐使が停止されてから、日本式に戻るようになり、身分の上下、階級の別なく垂髪となった。公家婦人の間では、髪の長さは身丈よりも30センチメートル以上長いのが普通となり、『大鏡』には髪の長さが4メートルもあったという宣耀殿(せんようでん)の女御(にょうご)(村上(むらかみ)天皇中宮)の話が記されている。しかしこれは特殊な例で、民間や宮中でも、お末(すえ)、はした女(め)などのように仕事に追いまくられる人たちの髪の長さは腰ぐらいまでで、毛先を袴(はかま)の腰に挟むのが普通であった。鎌倉時代に入ると、長髪の地毛をもつ者が少なくなり、長髪を結うための仮髪(かはつ)(鬘(かつら))が必要となった。この仮髪をのちに女房詞(ことば)で「かもじ」というようになった。江戸時代になると、垂髪を笄(こうがい)で留める椎茸髱(しいたけたぼ)が考案され、晴のときには笄を抜いて、垂髪とする簡便法さえできた。

 女性が男性と同様に、日常の仕事をするのには、垂髪では不便なので、安土(あづち)桃山時代から、垂髪を輪にまとめて後頭部で留める唐輪(からわ)が生まれた。さらに江戸時代に入り、被(かぶ)り物の禁令後、素顔で歩くようになって、遊里から島田髷、兵庫髷、勝山(かつやま)髷が生まれ、また笄を利用した束髪の笄髷、あるいは玉結びという髪が若い人たちの間に広まった。江戸中期以降になって、島田髷、勝山髷、笄髷から変化した割(さき)笄髷、丸髷、竹の節(ふし)、しのぶ髷、貝(ばい)髷、浮き船、簡単な櫛(くし)巻きなどが行われた。江戸末期には、松葉返し、おたらい、うばこ、おしどり、唐人(とうじん)髷、天神、割り鹿(か)の子、深川、結綿(ゆいわた)など、明治初年にかけてその数は280余種にも及んだ。

 明治に入ると、若い女性に唐人髷、ふくら雀(すずめ)、桃割れ、結綿、既婚者には銀杏返し、丸髷などが用いられた。鹿鳴館(ろくめいかん)時代の到来とともに、西洋風の束髪がおこり、西洋上げ巻き、西洋下げ巻き、イギリス結び(巻き)、夜会巻き、花月結び、下田髷、二〇三高地と変わっていった。大正になると、七三の女優髷が現れた。さらに欧米から髪のアイロンが輸入されて、ウエーブがはやり、また断髪が「職業婦人」の間でしだいに普及した。一方、しゃぐま(入れ毛)を利用して髪先がわからないようにした行方不明という髷もできた。耳隠しという髪形も、大正から昭和にかけて流行した髪である。

 焼き鏝(ごて)にかわって、1935年(昭和10)ごろから電気パーマネント・ウエーブ(電髪)の流行期に入ったが、第二次世界大戦突入とともにパーマは禁止され、自粛髪時代となった。戦後は欧米模倣が盛んになり、パーマも薬品によるコールド・パーマ時代となった。

 第二次世界大戦後の髪形については、男性の場合同様、世界のヘアモードに影響を受ける一方、日本国内でも技術団体がそれぞれ独自の髪形を発表し、流行の指針となっている。

 1970年代になると、女性の社会進出に伴い、従来の長時間のセットを要するスタイリングからの解放が望まれた。イギリスのビダル・サスーンVidal Sassoon(1928―2012)は、スタイリングの前提であったセット技術、つまり髪にカールやウエーブを固定させるためのセットローションを塗布し、櫛やカーラーなどで形づけをし、大きな釜形のドライヤーで完全乾燥させたあと仕上げるといったやり方を否定し、カットとハンドドライヤーで仕上げる技法(カット・アンド・ブロー)とその髪形を発表し、世界の美容界を驚かせた。その髪形の特徴は幾何学的な直線で構成されるものが基盤となっており、ワンレングスグラデーション・カット、レイヤーの三大基本技法を確立、現代の美容基礎技術として不動のものとした。そこから発信される髪形は世界中の女性に大きな影響を与えている。

 その後は、カラリングの流行が目覚ましく、カラーなしでは髪形は語れないほどの普及ぶりである。それも従来の単色染めからメッシュカラー、複色配合、あるいはブリーチ(脱色)と多岐にわたり、カラー全盛時代を迎えている。色を楽しむ傾向からとくに目だった髪形はなく、ごくプレーンなワンレングス調のストレート・ヘア、カット・アンド・ブローによるミディアム・ショートの「ツンツンヘア」や緩やかなパーマネント・ウエーブを施したソフトな髪形が主流である。

 また、薬品の研究も進み、従来縮毛(くせ毛)で悩んでいた人たちが、縮毛矯正(ストレートパーマ)によってストレート・ヘアが得られるようになり、大いに普及している。女性の髪形は、めまぐるしく移り変わる服装や化粧の流行と変動をともにしているのが現況である。

[遠藤 武・坪内靖忠]

子供の髪形

古代の男児は、髪を伸びるに任せるか、短く切っていたが、飛鳥時代以降、振分け髪、ひさご花、角子(つのこ)などの髪に結った。また女児は、ほとんどが垂髪にするか、振分け髪であった。平安時代になってから、男女とも髪を額中央から左右に分けて、肩の前に垂らした喝食(かっしき)、あるいは喝食を肩のところで切りそろえた目ざし(後世の禿(かむろ))、みずらの変化した「びんずら」などにしていた。公家は2歳、武家は3歳の髪置祝いが済むまでは、男女ともに髪を伸ばさない丸坊主が普通であり、民間でも江戸初期まで頭髪は伸ばさなかった。平安末期の絵巻物など初期風俗画のなかに、この髪形の変容がよく描かれている。

 子供の髪形が大きく変化してくるのは江戸時代に入ってからで、男児は前髪、奴(やっこ)、盆の窪(くぼ)(盆のくそ)、芥子(けし)、あぶ、はち、とんぼなどがあった。一方、女児は前髪、奴、盆の窪から、下げ髪、銀杏髷、蝶々(ちょうちょう)、割勝山(さきかつやま)などの髪形にした。大人の髪形が変化する明治の文明開化とともに、男児は丸刈り、一分刈りのような短い髪にバリカン刈りすることが普通となった。女児はおかっぱ、お下げ、断髪などが生活の変化に伴って行われた。

 第二次世界大戦後しばらくすると、男児の髪形は、バリカン刈りはほとんど行われなくなって、坊ちゃん刈りにする子供が多くなり、頭部を保護する意味合いからも、髪を伸ばす傾向が増加した。1990年代後半には、スポーツ選手への憧(あこが)れから、野球選手のイチローやサッカー選手の中田英寿(ひでとし)の髪形をそれぞれまねた「イチローカット」や「ナカタカット」など、ショートの髪形が人気をよんだ。スポーツ少年などのショートヘアと、大人と同じ系統のロングヘアがともに定着している。

 女児については、理容店で整髪するおかっぱ型が多かったが、1970年(昭和45)ごろから美容室へ行く傾向が強まり、比較的年長の女児などは、1990年代後半の「カリスマ美容師」ブームに乗ってパーマやカラリングが常識化し、その髪形も大人と変わらず多様な広がりをみせている。

[遠藤 武・坪内靖忠]

『佐山半七丸著『都風俗化粧法』(1813・愛文房)』『大橋新太郎編『衣服と流行』(『日用百科全書 第6巻』所収・1895・博文館)』『都新聞付録『都の華』1~73号(1897~1903・都新聞社)』『十世三谷長三郎編『京都婦女髪形集』(1913・東京国立博物館蔵)』『喜多川守貞著『類聚近世風俗志』復刻版(1934・更生閣)』『橋本澄子著『日本の髪形と髪飾りの歴史』(1998・源流社)』『京都美容文化クラブ編『日本の髪型』(2000・光村推古書院)』


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改訂新版 世界大百科事典 「髪形」の意味・わかりやすい解説

髪形 (かみがた)

毛髪を,剃(そ)る,切る,編む,束ねる,ウェーブをつける,などの方法によってつくられる髪の形。おもに長い髪を束ねて結いあげた髪形をさしていうことが多く,結髪と同じ意味に使われる。性別,年齢,職業など社会的環境を象徴し,またその国,地域の民族色をも反映する。

日本人の髪形は東洋民族特有の直毛,黒髪の美を主体として独特な発達を遂げている。《魏志倭人伝》によれば,3世紀ころの日本人は,男は髪を結び垂れて頭を裂(きれ)で巻き,女は髪を結いあげていたようである。詳細は不明であるが,男女の髪形に多少の区別があったことは確かである。5~6世紀の古墳時代につくられた埴輪をみると,男子像はおおむね美豆良(みずら),女子像は後世の島田髷(しまだまげ)に似たを結いあげている。7~8世紀の飛鳥から奈良時代にかけては,風俗全体が隋・唐の影響をうけて大陸様式を模したものとなった。法隆寺宝物として伝わる仏像や伎楽面,正倉院宝物の《鳥毛立女屛風》,薬師寺に伝わる仏画《吉祥天女像》などによると,女は頭上に高い髷を結いあげるか,左右に二つの髷をのせている。また,大きくふくらませた一種の垂髪形式など,身分や年齢差が髪形に表れるようになった。これらを高髻(こうけい)または宝髻(ほうけい),頭上二髻(ずじようにけい),垂髪(すいはつ)などの名称で分類している。男性の髪形は,隋の風俗を模して,冠服の制にならい官職にある男性はをかぶることになり,髪を全部引きあげて頭上に髻(もとどり)を結んだ頭上一髻といわれる形に定着する。この形式を冠下の髻という。

 平安時代に入って藤原氏一門による貴族文化が生まれると,女性の髪形は唐様式から大きく脱皮した。奈良朝の高く結いあげた髻は姿を消し,髪を自然の垂髪にして裾に引く形になった。これは国風文化を育てた王朝の優美な感覚を反映して,俗に十二単(じゆうにひとえ)と呼ばれる豪華な襲(かさね)装束とも関連している。この垂髪はその後も中世を通して続いたが,貴族と庶民では同じ垂髪でも趣を異にする。労働に適した軽快な服装を必要とした一般庶民の場合は,垂髪の1,2ヵ所を元結(もとゆい)で結んで背後にまとめ,動作の便をはかった。

 平安時代以降中世の男性の髪形では,奈良時代より続いた冠下の髻のほかに,烏帽子(えぼし)下の髻,束髪,唐輪(からわ)などが現れた。冠下の髻は貴族階級や医者,学者などが結ったものであるが,中世では一般庶民にいたるまで男子は烏帽子を常用するようになって,元結の部分を少なく巻いて髪先を多く出す烏帽子下の髻が結われた。長い髪を頭上や後頭部に束ねた束髪は雑兵など身分の低い者にみられ,唐輪は後世の稚児髷のような髪形で,鎌倉時代ごろから武家の若党や稚児などが結った。また鎌倉時代からは,額から頭頂にかけて髪を円く剃りあげる月代(さかやき)の風習も武家の間で広まった。この形の起りは諸説あるが,戦場で冑をかぶるおりに熱気がこもるためというのが定説になっている。

室町時代末期から桃山時代にかけての女性の髪形では,徐々に髪が結いあげられ,唐輪髷,兵庫髷など結髪の初期の形がみられるようになった。唐輪髷は野性味をおびた素朴な形に特徴があり,これにやや技巧を加えたのが兵庫髷であるが,これらは男髷の模倣で,おもに遊女が結い始めたものである。貴族や武家の女性は江戸前期までは中世以来の垂髪を踏襲していたが,庶民の間では,髷を結うことに積極的であった女歌舞伎や遊里の女性たちを中心として広まり,江戸中期以後には,島田髷や勝山髷が一般女性の間で広く結われるようになり,日本結髪史上の黄金時代ともいわれる多様な髪形の誕生を見たのである。

 江戸時代女髷の概要を述べると,中期以降における特徴として,髪を前髪,髷,両鬢(びん),髱(たぼ)の五つに分髪して結いあげる形式が生まれ,後世の日本髪の基礎となった。この分髪形式は同時に生まれたわけではなく,それぞれの発達経路が少しずつ異なる。江戸前期の唐輪髷,立兵庫(たてひようご)などは髷の発達期と考えられ,次は前髪,髱の発達をみ,中期は特に髱の発達をみた。貞享(1684-88)のころに髱刺(たぼさし)というものが生まれ,これによって技巧的な髱が結われ,優美なカーブを描く洗練された髱として,セキレイの長い尾の形をした〈せきれい髱〉,カモメの舞い飛ぶ姿からとった〈かもめ髱〉などの名で呼ばれた。関西では髱を〈つと〉と呼んだ。髷は前期からの兵庫髷をはじめとして島田髷系統,笄(こうがい)髷系統が発達した。笄髷は笄を用いて髷を固定させて結いあげた髪形で,民間でも流行したが,はじめは大奥の女性の髪形として生まれた。髷の中の笄を引き抜くと髷がほどけ垂髪の状態になり,平安時代以来の垂髪の伝統をのこしている。江戸後期は鬢中心の時代で,髱と前髪は目だたぬ髪形となり,鬢には安永(1772-81)ころ,鬢張(びんはり)というものが工夫され,横に大きく張り出した灯籠鬢が流行した。この派手な鬢とともに,髷も多岐にわたり,島田髷も文金島田,つぶし島田,きりずみ島田などが結われ,勝山髷も前期の細い髷から,大きな幅広の髷に変わった。これは巷に髪結が増え,腕を競い合い,さまざまな髪形を創り出したのも原因の一つといえよう。

 江戸中期以降の女性の髪形の大きな特徴に,階級によって結い方や髷に相違があったことがあげられる。すなわち御殿風,武家風,町家風などに大別され,さらに未婚,既婚の別,既婚者の中でも新妻,子持ちの若妻,中年,老年の区別があった。たとえば,武家の妻女が結う勝山髷と町家の内儀が結う勝山髷とでは結い方に微妙な変化が加えられている。この区別は髪形ばかりでなく,着物の柄ゆき,着付などにも及び,一見して年齢,身分,生活環境が推察されたわけである。年齢別では,幼女から少女期のはじめまでにも多少の相違はあったが,一人前の娘となって嫁入前に結う髪形はおもに島田髷系統,既婚者の代表的な髷は勝山髷や笄髷であった。遊女や芸者など粋筋は兵庫髷系統か島田髷を結ったが,生娘の島田髷とでは趣が違って,根を下げた根下り島田,投げ島田,髷の中央をくぼませるつぶし島田などが結われた。また遊芸師匠や鳥追のような女性は天神髷,三つ輪,おさふねなどを結った。

 男性の髪形は近世になると,それまで一つの系統であったものが大きく変化した。衣装の簡略化と前代から始まった月代の一般化によって,冠,烏帽子の類の被り物(かぶりもの)を使用する風習がすたれるとともに,髻の種類も多くなった。髻を二つに折るいわゆる〈二つ折れ〉の形式には,おもな髻に茶筅(ちやせん)髻,銀杏(いちよう)髻,本多(ほんだ)髻などの系統が生まれ,女性の髪形の場合と同様に,武士,町人の区別はもとより,職業によっても各人の髪形に変化がみられた。江戸中期以後は,これらの髻形を基本として,辰松(たつまつ)風,文金風,本多風という三つの流れをもつ髻形へと移行した。辰松風とは,享保年間(1716-36)辰松八郎兵衛という人形遣いの名人の結った髻で,髻の刷毛先が短く,先端が急こう配に折れ曲がっていて,根を高く巻きあげその芯に針をさして固定したともいう。文金風とは,上方浄瑠璃の名人宮古路豊後掾の考案と伝えられる。流行したのは元文年間(1736-41)で,幕府によって文金を鋳造した時期にあたったところからこの名が生まれ,根の高い急こう配の髻は辰松風と似ているが,二つ折れ形式からは趣が少し異なり,髷尻が出ず,垂直に頭上に立ち,髻の芯には竹の串を用いたといわれる。本多風とは,本多忠勝家中の武士の風から起こったと伝えられているもので,男髷が最後に定着した髷であり,そのため本多風の種類も数多く,ぞべ本多,豆本多,本多くずしなど多くの名称をのこしている。

子どもの髪形は古代においては男女とも自然のままの垂髪形式で,奈良朝からは,この垂髪を男女とも肩で切りそろえ,これを振分髪といった。貴族階級の子どもから少年期の男子は美豆良を,女子は垂髪の一種で総角(あげまき)という髪形をこの後中世も引き続き結っていた。幼児には目刺という一種の下げ髪があり,中世以降の少年の髪形に束髪,下げ髪,稚児髷などがある。女子はほとんど下げ髪で変わらず,切禿(きりかむろ)という〈おかっぱ〉の一種のものや,頭の頂に小さい髷をつけ,まわりの毛を下げた形の芥子和気(けしわげ)と呼ばれる髪形などがある。幼児のおもに男子の髪形に,髪を剃り落とし,部分的に髪を残した髪形が近世より流行し,芥子坊(けしぼう),ごんべ(権兵衛),ぼんのくぼ(盆の窪)などの名がある。江戸後期から明治にかけて,女子は少女期になると,髷をつけ,おたばこ盆,桃割(ももわれ),結綿(ゆいわた),島田と,嫁入前まで年齢に応じて結い分けられていた。
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1871年(明治4)の〈散髪脱刀令〉は,従来の一般男子の丁髷(ちよんまげ)が外国と対等に付合いをする支障になるからという,外交上の目的から発せられたが,一般には〈文明開化のシンボル〉として受け取られていた。散髪令には男女別が明記されていなかったため,時代の先端をゆこうとする女性のなかに断髪する者が現れたが,翌年〈違式詿違(いしきかいい)条例〉で禁止された。しかし,従来の髪形は結うのが不便で非衛生的だとされ,85年東京に〈婦人束髪会〉が生まれた。一般の既婚者の間では銀杏返し(いちようがえし)が結われていたが,中・上流階級では束髪系統が一世を風靡した。束髪には西洋上げ巻,西洋下げ巻,イギリス巻,まがれいと(マーガレット)などがあり,たちまち全国にひろまった。このイギリス巻やマーガレットによって,初めて〈髪を編む〉という技法が日本に紹介され,鬢,髷,髱で構成された従来の髪形が変化していくことになった。明治期を代表する髪形には,花月巻,揚巻(あげまき),夜会巻,庇髪(ひさしがみ),S巻や,日露戦争の激戦地にちなむ庇髪の一種の二百三高地髷がある。大正期にかけて流行する七・三女優髷は,これまでの左右均整形を脱した新しい行き方を示し,アイロン・ウェーブ応用の,耳隠しスタイルに展開していった。

 洋装の普及とともに洋髪も広まり,大正末期,今和次郎の東京銀座での調査によると,洋髪42%,日本髪31%,束髪27%であった。1930年代に入ると,電気パーマネントがアメリカから輸入されてショートヘアが流行するが,第2次大戦中は服装の規制とともにパーマも禁止された。戦後1948年ころ輸入開発されたコールド・パーマネント技法は,55年ころのヘプバーン・スタイルやセシル・カット,おかっぱ風のボブ・スタイル,ページボーイ(内巻き)など軽快な髪形を次々と生み出した。1970年以降は,オオカミ・カット,カーリーヘアのような個性的な髪形も追求され,男女ともにカット・アンド・ブローという,パーマによらずカットのみで形づける技術が広く行われている。

 男性の髪形は,女性の場合と異なり,旧体制から抜け出すことが急がれており,散髪令の出る3ヵ月前の《新聞雑誌》には,〈半髪頭をたたいて見れば因循姑息の音がする。惣髪頭をたたいて見れば王政復古の音がする。ジャンギリ頭をたたいて見れば文明開化の音がする〉という流行歌が紹介された。半髪とはいわゆる丁髷で,惣髪は月代をなさずまとめた髪,ジャンギリは髪を散切(ざんぎり)にしたものである。1873年(明治6)3月の天皇の散髪を契機として,同年には東京人の75%は散髪をしたという。古い髪形は間もなく,フランス調,イギリス調などの巧みなスタイルに移っていった。明治末から従来の中央分けに代わって,七・三の分け髪が流行し,短髪が好まれてくる。明治中期に登場したヘアクリッパー(バリカン)は,軍人の髪形を規制し,一般にも一分刈り,五分刈りなど各種の長さの丸刈りの普及をみることになり,第2次大戦まで続いた。大正期から昭和初期にかけては,男性用整形アイロンも利用されて,オールバック,ショートバック,ハーフロング,ミディアムカットなど外国のモードなどを取り入れつつ日本人男性の基本髪形を完成した。1942年,大政翼賛会は丸刈りを中心に翼賛型3種の髪形を決定し,全国に実施させた。

 敗戦とともに駐留米軍のGIカットも模倣され,戦前のリーゼント・スタイルも大流行した。またコールドパーマネントの応用整髪は,髪を横流しするダイアゴナル・スタイルなど多様な髪形を創り出し,1957年ころの慎太郎刈りやジェームズ・ディーンのスタイルなど,映画の影響を受けたスポーティな髪形を流行させた。65年ころアメリカからアイビー・スタイルが入り,新しいレザーカットや液体整髪,ヘアドライヤーなどが普及した。60年代以降のビートルズの人気はユニ・セックスな長髪を流行させた。75年ころにはパンチ・パーマ(変形アイロン)によるアフロヘアのような髪形も登場した。
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古代エジプトでは,王侯貴族の男女は本来の髪を切って剃り,(かつら)をつけていた。鬘には人毛を用い,まっすぐな髪を長く垂らしたり髪全体を細かく編んだ上にヘアバンドなどの飾りをつけていた。髪には香油を塗ってつやを出した。アッシリアやペルシアでは顎鬚(あごひげ)と髪形は同じウェーブにそろえ,鬘も使用した。ギリシアでは未婚の女性は三つ編みの髪を長く垂らし,既婚女性は髷をつけてヘアバンドで飾り,男性は短い巻毛にしていた。ローマ帝政時代の2~3世紀には,女性の髪形は,蜂の巣のような無数の巻毛をつくって前頭部を高く後頭部を低くしたり,帽子をかぶったような形など100種以上あった。貴族は奴隷に結わせたが,ギリシア時代からある理髪店(床屋)が市民の社交場としてもにぎわった。ゲルマン民族はすでに赤く染髪する技術をもっていた。

 帽子,ベール,ずきんなどの被り物が一般化した中世では,髪はそれらの中に隠され技巧的な特徴は14世紀まで見られなかった。14世紀に,編んだり縮らせたりした髪を,耳を隠したり,両頰にそって垂直に垂らし,レースやウィンプルと呼ばれるベールなどで覆った髪形が現れた。ルネサンス盛期のイタリアでは美への憧憬が高まり,美容術,染髪術の書が出版された。金髪に熱望し,黒髪を茶褐色や金髪に変えようとした。太陽光線が金髪をつくるという考え方から,屋根の上に箱を置き,その中で日中の長時間髪を日光にさらし続けた女性も少なくなかった。効果がないと鬘をつけた。髪には真珠などの宝石,ヘアネット,リボン,金糸などを編み込み,ベールや冠状の髪飾,櫛などで飾った。それは広い額,細い眉,大きくくった襟をもつ衣服と調和し,ルネサンス期のイタリア・モードを特徴づけた。

 17~18世紀のフランス,ルイ王朝の宮廷で,巻毛の大きなふさふさとした鬘が流行し,ルイ14世の時代からフランス大革命に至る約1世紀の間,髪形は史上,最も壮大,奇抜,豪華になり,豊かな大きな鬘は社会的地位を象徴した。鬘はルイ13世が禿を隠すために用いたのが契機となって流行したといわれ,公式用の大きなものから家庭用の小型のものまで形,色,大きさが多様で,朝は黒,昼間は褐色,夜は金髪と1日に3回鬘を変える者もいた。鬘には小麦粉や米の粉からつくった白い髪粉をふりかけた。自毛を剃ることも多く,家庭では剃髪にナイトキャップ(室内帽)をかぶっていた。女性は針金で山形にし,レースなどを張ったフォンタンジュという髪飾を用いた。またセビニェ夫人にちなんで名付けられた,両頰に編んだ髪を垂らし後頭部をふくらませた〈セビニェ風〉という髪形が好まれた。その後〈頭の先から足先の真ん中に顔がある〉とさえいわれるほどの高い髪が宮廷での祝宴などで流行し,庶民も花やリボン,羽毛で飾った大きなボンネットをかぶった。髱(たぼ)を入れて大きく高く結った髪は結髪師,鬘師が腕を競った作品であるが,頭上に庭園や船をつくったりした奇抜さはしばしば風刺の対象になった。この時代,剃髪し鬘をかぶる女性もいた。これらの髪形は手入れが不便で不潔になりやすく,クラッチャーと呼ばれる頭かき棒を使っていた。

 鬘はフランス革命を機に流行が終わり,法律家や聖職者など特殊な職種の象徴として残った。髪形も簡素になり,男性は頭の真ん中や横で分け,額に少し前髪を垂らした。女性は本来の髪に古代ギリシア風に後頭部に髷(まげ)をつけ,ヘアバンドやボンネットで飾った。19世紀にはカールやリボン,花,櫛などで飾られたものの単純な髪形が続いた。20世紀に入り活動的な生活が好まれるようになると,女性は男性の短い髪形をとりいれ,第1次大戦後ボブ・スタイルが〈新しい女〉,活動的でおしゃれな女性の間で流行した。1906年に発明されたパーマネント・ウェーブは世界的に普及し,また第2次大戦後にコールドパーマやカット・アンド・ブローの技術が定着して,さまざまな髪形を生み出している。
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未開社会における伝統的な髪形は,入墨や化粧や衣服と同様に,性別や未既婚の別,身分,集団への帰属などを表示する一種のサイン,記号となっている。髪形は,アマゾン流域の原住民のように,既婚の女性は前だけおかっぱ,未婚の娘は長髪といった区別のほかはいかなるバリエーションももたない社会から,西アフリカの部族のように,女性は何十種もの髪形と精巧な(かつら)をもつような地域までさまざまである。しかし一般に,南太平洋の原住民社会ではほとんど髪形に注意が払われていない。山岳部の民族では,髪を細くたくさん編んで垂らす手のこんだ髪形が多くみられる。ペルーのケチュア族の既婚女性は幾条にも三つ編みにした長い髪を垂らしている。またかつて,チベットの貴族の女性は108本に髪を編んだといわれる。現在でも女性は,幾条にも細く編んで長く垂らした髪に,銀貨や貝などをぬいつけた飾り布をぶらさげた,きわめて装飾的な髪形をしている。念入りな髪結い,精巧華麗な髪形は,定住農耕生活が可能にしたものである。日々食べることに追われる採集狩猟民では,装飾的な髪形は見いだせない。オーストラリアのアボリジニーの,一度も洗ったことも櫛の目を通したこともないクモの巣のような頭髪が良い例である。

 最も変化に富んだ髪形の見本が見られるのはアフリカ大陸で,一つの部族だけで数十種の髪形をもつことが少なくない。アフリカでは男も,女ほどではないがこみ入った念入りな髪形をもつ。マサイ族,カラモジョン族などの勇猛果敢で名高い牧畜民の戦士社会では,〈男は強く美しい〉とする観念があり,一般にたいへん洗練された審美観を保持している。マサイ族では,女は髪をそるのが習慣であるから髪形のおしゃれは男だけのものである。ニューギニア高地の男たちも,豚の脂とすすをまぜあわせたもので,髪の毛を入念にセットする。東アフリカの牧畜民,戦士社会の男たちの過度の装飾性と対照的に,西アフリカでは,低級農耕を営む母系制社会を背景に,女たちが十分な余暇を利用して驚くほど複雑で時間のかかる無数の髪形を製作している。数ヵ月もかけて,粘土や脂で髪をこねあげ,子安貝やビーズ,羽毛その他さまざまな飾りをつけた大きな髪形を作りあげる。牛の糞で固められたものもあり,一度結いあげると数ヵ月はもつ。きわめて独創性に富むが,部族ごとに特徴的な髪形があり,未婚・既婚の区別がある。大きな髪形は,アフリカ社会に広く認められる秘密結社の存在と密接な関係があり,大きな仮面を支えるのに必要とされる。南太平洋でも同様の傾向がうかがえる。
髪飾
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「髪形」の意味・わかりやすい解説

髪形【かみがた】

日本の男性の間では冠下に一髻(ひとつもとどり)を結ぶことが長く行われたが,鎌倉時代,武士が月代(さかやき)をそるようになり,江戸時代には民間にも広まって,茶筅(ちゃせん)髪,二つ折り,辰松風,文金風本多髷(まげ)などが行われた。明治の文明開化とともに断髪が普及した。女性は古くは垂髪などであったが,奈良時代には中国の影響で一髻か二髻となり,平安時代になって独自の垂髪が行われた。桃山ごろからは結髪が盛んになり,江戸時代になると前髪,(びん),(たぼ),の分髪形式で数十種の髪形が考案され,兵庫髷勝山髷島田髷などが流行した。明治・大正時代には種々の束髪が広く行われた。昭和初年パーマネント・ウェーブが普及し洋装に合った髪形が選ばれた。現在はショート,セミロング,ロングを問わず,パーマをかける以外に,カット技術だけでととのえるカット・アンド・ブローが広く行われている。
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