弘山庄(読み)ひろやまのしよう

日本歴史地名大系 「弘山庄」の解説

弘山庄
ひろやまのしよう

古代宇佐郡広山ひろやま(和名抄)がのちに庄園化したと推定され、広山庄ともみえる。現宇佐市上時枝かみときえだ上高かみたか・下高・上庄かみしよう・下庄の地に比定される。宇佐弥勒寺領で鎮守は広山八幡社。平安時代末期に庄園化、宇佐弥勒寺が山城石清水いわしみず八幡宮本家職を寄進して同宮善法ぜんぽう寺領となり、弥勒寺喜多きた院は預所となった。仁安二年(一一六七)二月一九日の官符請取次第(石清水文書)に「弥勒寺庄二箇所泉庄・弘山庄下文」とあり、鎌倉時代初期と推定される弥勒寺喜多院所領注文(同文書)には、「広山庄八十町」と記載されている。弘長三年(一二六三)沙弥覚念らは当庄内と考えられる相伝私領の「高家郷弘山宮殿田弐段御封田、稲用放」「弘山犬子名田畠寺領、黒丸蔵人殿放」などを子息供僧神釈に譲与している(三月二八日「覚念田畠屋敷譲状」永弘文書)。弘安四年(一二八一)法橋神舜は当庄高村土器長職以下を与えられた(同年二月日「某下文」同文書)。元亨元年(一三二一)検校兼石清水別当権少僧都より「宇佐弥勒寺法華堂調直壱口料田二町三段弘山庄市名内、先学頭神観跡」が臨時の恩給として良賢に宛行われている(三月日「石清水検校宛行状写」到津文書)。建武元年(一三三四)宇佐弥勒寺僧神朝ら五名の知行する所帯などが和与され、神朝分「高村土器長職雑免」、神修分「公文職同雑免已下」、神勧分「米用料田山サワリ三段半」、神右分「米用水渡参段半」となった(一二月八日「弥勒寺別当神朝等和与状案」小坂坊文書)。このうち宇佐宮寺公文勾当別当神修は、暦応三年(一三四〇)当庄公文職・同雑免内弁分是安・末用・石丸以下を唯一の弟子紀千蔵丸に譲与している(七月一六日「公文勾当別当神修譲状案」同文書)。正平二〇年(一三六五)当時、当庄は平周防守と菊池武光の従人荒瀬幸明が知行していた(同年閏九月日「弥勒寺領注文案」八幡善法寺文書)。応永一七年(一四一〇)当庄名主加賀入道の子月光丸は本家の下知と称して謀書を構え当庄を押領している(同年六月日「善法寺雑掌性宗申状」石清水文書)、同三一年宇佐弥勒寺寺務時枝尚貞は宇佐宮番長兼少宮司永弘光世に庄内の長分二町を相続の旨に任せ安堵した(正月二六日「弥勒寺々務時枝尚貞安堵状」永弘文書)


弘山庄
ひろやまのしよう

和名抄」に記載される揖保郡広山ひろやま郷の郷名を継承する中世の庄園。いかるが(現太子町・龍野市)を北・西・南の三方から囲むように位置し、北は現在の龍野市龍野町中井たつのちようなかいから坊主ぼうず山東麓の現太子たいし佐用岡さようおかの一部、西は龍野市広山ひろやま・太子町阿曾あそ、南は太子町立岡たつおか矢田部やたべの三地区に比定され(嘉暦四年四月日「法隆寺領播磨国鵤庄絵図」法隆寺蔵)南西岩見いわみ(現太子町)南東福井ふくい(現姫路市)、西は小宅おやけ(現龍野市)北東大市おおいち(現姫路市)と接していた(永徳二年八月六日「弘山庄実検絵図写」円尾文書)。庄域の中心は弘山八幡(現龍野市の阿宗神社)のある西側地区とみられ、その西境で南流する井述川(現揖保川)と庄内を東西に貫通する八町縄手大道(中世山陽道)が交わる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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