弘野村(読み)ひろのむら

日本歴史地名大系 「弘野村」の解説

弘野村
ひろのむら

[現在地名]檮原町広野ひろの

四万川しまがわ川の右岸に開けた村で、東は房六ぼうろく村。永和元年(一三七五)八月三日の津野浄高所領宛行状(蠧簡集拾遺)に「椅原村内広野郷」とみえるのが早く、このとき広野郷の半分が一期を限り方田治部左衛門尉頼定に宛行われている。天正一六年(一五八八)の津野檮原村地検帳に弘野名がみえ、村域の検地面積六町余、ヤシキ一七筆と推定され、うち津野氏の直轄地は一町一反余。四町八反余は津野氏の家臣戸田弥二兵衛尉ほか一四人の給地。檮原村の地下支配人であったと考えられる催は六代の下ヤシキに住み、九反余の「紙漉地 催給」があった。


弘野村
ひろのむら

[現在地名]三原村広野ひろの

皆尾みなお村の西方、三原川の支流皆尾川の上流にある。南のいまノ山山中から流れ出た谷川が、大きく弧を描いて東に流れを変える所にある平地の村で、三原郷一村。「土佐州郡志」は「東西十五町余南北十七町余、戸凡三十五、其土黒交砂」と記す。

村名は天正一八年(一五九〇)の三原郷地検帳にみえ、検地面積一六町八反余、屋敷数一一うち居屋敷七。「御直分」と「依岡給」が相半ばする。江戸時代の当村は元禄郷帳によると本田高一六八石余。正徳六年(一七一六)の大庄屋差出(生城文書)によれば反別二一町二反(うち新開分四町三反)、家数二八、人数一二八、運上物に竹一二荷、雁皮六〇五匁、茶株六千五六五株、麻苧三千二〇〇貫があり、牛九、馬二三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android