御持筒町(読み)おもちつつまち

日本歴史地名大系 「御持筒町」の解説

御持筒町
おもちつつまち

[現在地名]鶴岡市宝町たからまち日吉町ひよしまち山王町さんのうまち

下山王社(現日枝神社)の東側から東へ延びる家中と給人屋敷地。西はあら町へと続き、東はきつね町・松原まつばら町名はおもに持筒(鉄砲)組が居住したことによる。下大宝寺しもだいほうじ村の一部。延宝六年(一六七八)の城下絵図では侍町二三五間とあり、道の南側に御持筒屋敷がある。同年の御家中仮名付(鶏肋編)では下大宝寺とあり、一五〇石牧源五左衛門・三五〇石松浦長左衛門ら一二名の屋敷があった。元禄九年(一六九六)の城下大絵図では大宝寺二八〇間。文政四年(一八二一)頃の城下絵図では御モチ筒町とある。庄内藩主の参勤交代行列は当町を通り江戸(清川)街道へ出ていた。享和三年(一八〇三)には当町で行われていた下山王社祭礼日の流鏑馬が荒町へ移され(「御用帳」宇治文書)、同年から西部北側の大蔵小路おおくらこうじ六軒小路ろつけんこうじにかけて藩校致道ちどう館が建設され、翌文化元年(一八〇四)竣工、同一三年に郭内十日町とおかまち口へ移された(大泉掌故)


御持筒町
おもづつちよう

[現在地名]盛岡市加賀野かがの四丁目

外加賀野そとかがの小路の北東にあたり、東西四町半ほどの鉄砲組の足軽組町(「盛岡砂子」など)。東は加賀野村を隔てて妙泉寺みようせんじ山に相対し、西は中津なかつ川河岸に接する。北の同川の川原には加賀野春木場がある。盛岡藩における鉄砲隊の訓練については、「御家被仰出」によれば、承応三年(一六五四)「御家中御同心之者共、今日ヨリ星打始ル」とあり、当町は寛文九年(一六六九)御持筒の者の召抱えがあった際に開かれたと推測されている(盛岡砂子)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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