朝日日本歴史人物事典 「徳川治宝」の解説
徳川治宝
生年:明和8.6.18(1771.7.29)
紀州徳川家第10代藩主。8代藩主重倫の次男。母は側室おふさ。幼名岩千代。江戸に生まれ,のち9代藩主治貞の養子となる。19歳で襲職後,藩政改革に意を用い,財政立て直し,藩学と文化事業の興隆に実績を残した。従来徳川吉宗の著とされた『紀州政事草』と『紀州政事鏡』も,治宝の著ではないかと推定される。文政6(1823)年の紀州大百姓一揆の翌年,藩主の座を譲って隠居するが,その死去に至るまで,藩政に隠然たる力を振るった。天保8(1837)年,従一位に昇叙の報が届いたとき,たまたま昼の膳についていた治宝は「これにましたるうれしさはなし,おれはもうめしはくはずともよし」といい,「一位とはもはや神の位なるぞ」といってうれし涙を流したと『小梅日記』は伝えている。<参考文献>遊佐教寛「徳川吉宗の紀州藩政と二冊の偽書」(『和歌山県史研究』13号),『和歌山市史』2巻,『和歌山県史』(近世編)
(藤田貞一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報