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徳川茂承 とくがわ もちつぐ

美術人名辞典の解説

徳川茂承

伊予西条藩主松平頼学の七男。江戸生。幼名は賢吉、のち頼久。和歌山藩主徳川斉橿の養子となり、茂承と改名する。参議に任じられ、権中納言に至る。維新後は和歌山藩知事、貴族院議員を務める。明治39年(1906)歿、63才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川茂承 とくがわ-もちつぐ

1844-1906 幕末-明治時代の大名,華族。
天保(てんぽう)15年1月15日生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)西条藩主松平頼学(よりさと)の7男。徳川慶福(よしとみ)(のちの14代将軍家茂(いえもち))の跡をつぎ,安政5年紀伊(きい)和歌山藩主徳川家14代となる。第2次幕長戦争では幕府軍の先鋒(せんぽう)総督。津田出(いずる)を登用して藩政改革を実施。のち侯爵,貴族院議員。明治39年8月20日死去。63歳。初名は頼久。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川茂承

没年:明治39.8.20(1906)
生年:弘化1.1.15(1844.3.3)
幕末の紀州(和歌山)藩主。紀州支藩の伊予国西条藩(愛媛県)藩主松平頼学の子に生まれ,安政5(1858)年幕命により本家を継ぐ。慶応1(1865)年5月征長先鋒総督に任命され,翌年6月より第2次長州征討の指揮に当たったが,戦況不利のまま休戦,帰陣。慶応4年1月鳥羽・伏見の戦で敗走した徳川兵を庇護したとの嫌疑を受け上洛,藩兵を東海道先鋒総督に提出,命じられて金15万両を献上。のち和歌山藩知事,廃藩置県で東京府貫属。皇居炎上ののちの同6年,赤坂の旧中屋敷地を献上。同10年,旧藩士族の人材養成のため金10万円を提供して徳義社を設立。趣旨に言う,「藩主に仕るの忠は国に報るの忠と為るべし。門閥争論民権の争論と為るべし」。福沢諭吉の文である。

(井上勲)

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