精選版 日本国語大辞典 「志々伎神社」の意味・読み・例文・類語 ししき‐じんじゃ【志々伎神社】 長崎県平戸市野子町にある神社。旧県社。祭神は十城別命(ときわけのみこと)ほか二柱。天平一〇年(七三八)の創建と伝えられる。下松浦明神。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
日本歴史地名大系 「志々伎神社」の解説 志々伎神社しじきじんじや 長崎県:平戸市野子村志々伎神社[現在地名]平戸市野子町志々伎山(三四七・二メートル)山頂の上都(かみつ)宮(上宮)、中腹の中都宮(中宮)、その北西方の宮(みや)ノ浦の辺都(へつ)宮(下の宮、地の宮とも)、および宮ノ浦の海上にある沖(おき)ノ島の沖都(おきつ)宮、この四宮の総称。古くは松浦(まつら)明神などと称した。旧県社。祭神の十城別王は仲哀天皇の弟で、神功皇后が三韓出兵の帰途に志自岐(しじき)にとどまった折、警衛に従事したという。この十城別王を天平一〇年(七三八)に祀ったのが始まりで、上都宮はその墳墓であると伝える。山頂の近くにあった中都宮は永禄二年(一五五九)中腹に移転したとされる。景行天皇が筑紫にきて志式(しじき)島を行在所として大値賀(おおちか)・小値賀(おちか)(「肥前国風土記」のいう大近・小近)の賊を征したというが、そこは宮ノ浦の辺都宮であったという。また沖都宮の地は王の最初の上陸地といわれ、全島が聖地であった。弘仁二年(八一一)木像の神体を安置して志々岐神社と改称したという。「三代実録」貞観二年(八六〇)二月八日条にみえる「志々岐神」に比定され、従五位上になっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by