応永条約(読み)おうえいじょうやく

改訂新版 世界大百科事典 「応永条約」の意味・わかりやすい解説

応永条約 (おうえいじょうやく)

1404年(応永11)に,明の成祖永楽帝と日本の将軍足利義満とのあいだにとりきめられた通商貿易に関する条約といわれているもの。この年が明の永楽2年にあたるところから永楽要約ともいわれる。内容は,(1)遣明船は10年に1回の割合で入貢させる,(2)毎回の正副使や乗船乗組の人員は300人以下にする,(3)船数は2隻にする,というものである。中国の《籌海図編(ちゆうかいずへん)》《吾学編》《明史》などに記されているが,歴史事実と照らしあわせてみると,まったく架空の条約といわざるをえない。16世紀になって倭寇などに対する警戒心が強くなり,遣明船の監視がきびしくなった雰囲気のなかで誤想されたものとおもわれる。後藤秀穂,小葉田淳によってこの条約は存在していなかったことが明らかにされた。なお近代国家相互間に締結されるような〈条約〉はこの時代には存在しなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「応永条約」の意味・わかりやすい解説

応永条約
おうえいじょうやく

1404年(応永11)に明(みん)と締結されたといわれる通交貿易条約の名。明の年号をとって永楽要約(えいらくようやく)ともいう。1401年足利義満(あしかがよしみつ)は明に使節を送り、数度の往復ののち明の冊封(さくほう)を受けた。04年に至り明の新帝(永楽帝)は趙居仁(ちょうきょじん)を遣わし、詔書金印、勘合符(かんごうふ)百道(100通)をもたらした。以後150年間の対明勘合貿易がここに始まった。このとき、遣明船は10年に1回の入貢とする、人員は200人、船は2隻に制限する、軍器は不携帯とする、これに反したものは寇(こう)とみなすという約を結んだという。これが応永条約である。しかしこのころは日明間の往来がもっとも盛んに行われており、条約と実態との乖離(かいり)が甚だしいため、条約そのものが架空であり、16世紀の日明間の不信に基づく誤想であると考えられている。『明史(みんし)』などの記事は鄭若曽(ていじゃくそ)編『籌海図編(ちゅうかいずへん)』の引き写しであり、架空説を覆す史料は見当たらない。

田中博美]

『小葉田淳著『中世日支通交貿易史の研究』(1941・刀江書院)』

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