「漢委奴国王」と陰刻された純金製の印。1784年(天明4)筑前(ちくぜん)国那珂(なか)郡志賀島(しかのしま)村(福岡市東区)で百姓甚兵衛(じんべえ)により発見された。福岡藩主黒田家に納められ今日まで伝わる。印には隷書(れいしょ)体で「漢委奴国王」の5字が3行に陰刻されている。読み方には諸説あるが、江戸後期、藤貞幹(とうていかん)(1732―1797)は「委奴」を「いと」と読み、筑前の怡土(いと)(伊都)国に比定した。その後1892年(明治25)三宅米吉(みやけよねきち)により「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、いまの那珂郡に比定されて以来この説が有力である。『後漢書(ごかんじょ)』東夷(とうい)伝に、「建武中元二年(西暦57)倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武(こうぶ)賜うに印綬(いんじゅ)を以(もっ)てす」とみえるが、金印の発見は『後漢書』のこの記事を裏づけるものである。当時奴国は大陸との交易により繁栄し、倭の代表的存在であった。
金印発見の状況は、甚兵衛の口上書によると、甚兵衛の田のある叶の崎(かなのさき)の溝を改修していたところ、溝岸の地中に2人持ちほどの石があり、その下の石囲いの中に金印が納められていた、という。金印の発掘場所については、1913年(大正2)九州帝国大学の中山平次郎(1871―1956)が志賀島の阿曇(あずみ)家所蔵の絵図などから博多(はかた)湾の対岸にあたる古戸を発掘地点とし、現在「漢ノ委奴国金印発光之処」という記念碑が建てられている。しかし、現地が海に面した断崖(だんがい)にあり水田遺構もなく、古戸という地名も一致しないため、島の北西の叶の浜(かなのはま)とする説もある。金印出土遺跡の性格については古くから諸説あるが、代表的なものとして、(1)伴信友(ばんのぶとも)の隠匿説、(2)菅政友(すがまさとも)(1824―1897)の墳墓説、(3)橋詰武生(たけお)(1891―1979)のドルメン説、(4)榧本杜人(かやもともりと)(1901―1970)の支石墓(しせきぼ)説、(5)水野祐(みずのゆう)(1918―2000)の磐坐(いわくら)説などがある。しかし、いまだ金印の出土地点や出土状況が不明確なため、いかなる性質の遺構であったか断定できない。1966年(昭和41)に実施された工業技術院計量研究所(現、産業技術総合研究所計量標準総合センター)の測定によると、印面の1辺の長さの平均は2.347センチメートル、高さ2.236センチメートル、重さ108.729グラムで、鈕(ちゅう)は蛇を象(かたど)った蛇鈕である。辺の長さは漢代の1寸の規格に適合する。江戸時代後期、松浦道輔(まつうらみちすけ)(1801―1866)によって金印偽作説が出されて以来、多くの偽作説や私印説が出されたが、今日では真印説が有力である。1954年(昭和29)国宝に指定された。
[井上幹夫]
『大谷光男著『金印――漢委奴国金印』(1974・吉川弘文館)』▽『藤間生大著『埋もれた金印』(岩波新書)』
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…《後漢書》にみえる光武帝が建武中元2年(57),倭奴国王に贈ったとされる金印。1784年(天明4)2月23日,博多湾志賀島で百姓甚兵衛が水田の溝を修理していたところ,二人持ちの大石が現れ,これを掘り起こすと金印が出てきたと伝えられる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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