戦死者の慰霊碑。日露戦争前には記念碑,招魂碑と呼ばれるものが建てられたが,忠魂碑として日本全国に普及していくのは日露戦争以後のことで,大正・昭和天皇の即位記念事業として,市町村の在郷軍人分会が献金を募集し,小学校の一角に建立したものが多い。碑文題号の揮毫(きごう)者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六の例が多く,除幕式は慰霊祭を兼ねて3月10日の陸軍記念日に挙行された。日中戦争がはじまると,1939年7月に大日本忠霊顕彰会が発足し,その指導によって戦死者の遺骨を納めた忠霊塔を各市町村に1基ずつ建設するようになった。忠魂碑は,戦死者の追悼にとどまらず,これを通じて国家への忠誠心を養成するという軍部や国家指導者の意図によって建設されたという面をもち,戦時中は戦死を美化し銃後協力を国民に強制するための象徴として機能した。敗戦直後,忠魂碑は軍国主義・国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものとして撤去され,あるいはその場所に埋められた。しかし,1950年代にその多くが遺族会などの手によって復元され,さらに60年代末からは,自衛隊や保守政治家と結びついた形で,旧部隊を母体とした旧軍人の戦友会による建碑が盛んになってきている。
執筆者:功刀 俊洋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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