慈願寺
じがんじ
[現在地名]八尾市本町三丁目
橘御堂とも称し、真宗大谷派、山号福井山、本尊阿弥陀如来。開基は親鸞の有力門弟二十四輩の一三番目に数えられる信願房法心。草創時には長瀬川対岸久宝寺村にあった。元文二年(一七三七)の慈願寺由緒書之覚(寺蔵)は、下野国那須郡の豪族那須肥前守資村が親鸞の関東布教時代に帰依して法心と称し親鸞帰洛に随伴、弘安三年(一二八〇)親鸞の遺命により渋川郡橘島久宝寺村に当寺を開創したと伝える。しかし、寺蔵の本願寺三世覚如著「拾遺古徳伝」の写本奥書に「河内国渋川郡久宝寺道場 釈法心 応永十四年丁亥十一月三日 執筆 毛須生年三十」とあり、この法心が先の法心と同一人物ならば、弘安三年と応永一四年(一四〇七)の年代の差から開創時期に問題が残る。しかし、いずれにしても河内で最も早く成立した真宗寺院(道場)の一つであることは確かであろう。久宝寺道場が慈願寺の寺号を称するのは文明七年(一四七五)九月以前で、六代住職法円のときであった(寺蔵「親鸞上人絵伝」裏書)。法円は本願寺八世蓮如に仕えた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の慈願寺の言及
【八尾[市]】より
…1580年(天正8)石山本願寺退却の折,織田信長は寺内の支配権を安井氏に与え,のち豊臣秀吉もこれを追認した。1606年(慶長11)顕証寺と安井氏の伝統的な支配に対して,村民17人と慈願寺(顕証寺の世話寺)が抗争し,ついに寺内から分離独立し,大和川の対岸に新しく町屋を開いた。これが八尾寺内で,東本願寺別院大信寺を建立し,慈願寺はその行事をつとめた。…
※「慈願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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