久宝寺村(読み)きゆうほうじむら

日本歴史地名大系 「久宝寺村」の解説

久宝寺村
きゆうほうじむら

[現在地名]八尾市久宝寺一―六丁目・北久宝寺きたきゆうほうじ一―三丁目・南久宝寺みなみきゆうほうじ一―三丁目・西久宝寺にしきゆうほうじ渋川しぶかわ町一―二丁目など

長瀬ながせ(当地辺りでは久宝寺川ともいった)の左岸沿いの平地に立地。摂津平野郷ひらのごう(現平野区)からの街道(八尾街道)がここを通って八尾へ向かい、東の高安、北の若江わかえ諸村(現東大阪市)へ出ることができる。長瀬川による舟運もある。地名は聖徳太子の建立と伝える久宝寺による。寺院久宝寺は建永二年(一二〇七)七月八日の僧深慶某寺領注進状(正木直彦氏所蔵文書)に「河内国末寺久宝寺若江郡狛郷」とみえる。現在、久宝寺はなく、その寺跡も不明。なお当地は古代には渋川郡に属したと思われ、近世にも渋川郡であるが、この史料では若江郡狛郷とあるのが留意される。

中世、久宝寺から加美かみ(現平野区)にかけての一帯を広く橘島たちばなしまとよんだ。文明二年(一四七〇)本願寺八世蓮如は当地の慈願じがん寺に来て布教した。同年九月蓮如が慈願寺に与えた「親鸞上人絵伝裏書には「河内国渋河郡橘島久宝寺」とみえる。蓮如はその後ここに西証さいしよう寺を建て、第一一子実順を住まわせた。のち第六子蓮淳が入寺し、顕証けんしよう寺となった。天文一〇年(一五四一)前後、同寺を中心に久宝寺寺内町が形成された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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