慧慈(読み)エジ(その他表記)Hye-ja

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精選版 日本国語大辞典 「慧慈」の意味・読み・例文・類語

えじヱジ【慧慈】

  1. 高麗(こうらい)の僧。推古天皇三年(五九五)来日して聖徳太子の師となり、二〇年後帰国した。聖徳太子の「法華義疏」を高麗に伝えたといわれる。六二二年没。

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改訂新版 世界大百科事典 「慧慈」の意味・わかりやすい解説

慧慈 (えじ)
Hye-ja
生没年:?-623

朝鮮高句麗学問僧。595年(推古3)に来日し,聖徳太子の仏教の師となり,同年渡来の百済慧聡とともに三宝棟梁と尊ばれた。596年造営の飛鳥寺に住し,仏法の弘通にあたった。615年帰国し,622年太子の死をきいて大いに悲しみ,来年の命日に死ぬと予言し,約した日に入滅したので,時人は慧慈もまた聖なりと評したという。太子著の《三経義疏》を本国に持ち帰ったと伝えられる。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「慧慈」の解説

慧慈 えじ

?-623 高句麗(こうくり)(朝鮮)の僧。
推古天皇3年(595)に来日。聖徳太子の師となり,同年百済(くだら)(朝鮮)からきた慧聡とともに三宝(さんぼう)の棟梁として尊敬された。23年帰国した。栄留王6年2月22日死去。

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世界大百科事典(旧版)内の慧慈の言及

【飛鳥美術】より

…地上に立ち並ぶ大陸伝来の壮麗な伽藍に比し,地下は依然として古墳の世界であり,新来の仏教文化と古墳文化の接点を,よく象徴するものといえよう。《日本書紀》によれば595年,高句麗から慧慈,百済から慧聡が来朝し,翌年の竣工とともに同寺止住の僧侶となり,ここにはじめて仏法僧が備わった法興寺が出現したのである。
[斑鳩移宮]
 598年になると,高句麗は隋の遼西地方に侵入し,隋は敗北した。…

※「慧慈」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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