日本歴史地名大系 「成相新田宿」の解説
成相新田宿
なりあいしんでんじゆく
松本の西北方八キロ、現
宿の中央、現在法蔵寺のあるところに堀を巡らせた方一町の「屋敷構え」(信府統記)をつくり、更に成相町村から分岐する
近世に入って松本城主石川氏は領国支配を固めるために交通路の整備に努め、慶長一三年(一六〇八)穂高宿(現穂高町穂高)と松本との中間のこの地に宿場町を建設。宿は上・中・下の三町からなり、上町が成相町村、中・下町が成相新田町村である。成相町村は成相本村の枝村で、宿を形成した住民は従来からここに住んでいたものと、成相本村から新たに移住してきたものが大部分である。このことは、慶安四年(一六五一)の検地に際して住民三五人中成相新田町村に耕地をもつものが二一人あることからも知られる。特に自村より新田町村に土地を多くもつものが六人いる。
慶長九辰年より慶安三寅年迄人別生国付(藤森祐氏蔵)によると、新田町村来住者は、松本領三九人、諏訪二九人、松代三人、善光寺一人、甲州四人、飛州二人、越前二人、駿州一人、越後一人、越中一人、出羽一人である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報