法蔵寺(読み)ほうぞうじ

日本歴史地名大系 「法蔵寺」の解説

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]岡崎市本宿町 寺山

東海道筋南側に位置し、近世を通して門前は下馬の扱いであった。浄土宗西山深草派の三河三檀林の一つで、二村山と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生しゆつしよう寺と称し、古くは法相宗であったと伝える。また源頼義が、後三年の役の東国下向途中に戦勝祈願をし、寛治五年(一〇九一)源義家が着用の甲冑を奉納したと伝える。応永二年(一三九五)竜芸在判の「開山之旧記」(法蔵寺文書)では、至徳二年(一三八五)京都円福えんぷく寺の竜芸が浄土宗に改宗して法蔵寺と改名したとする。享保二年(一七一七)寺社奉行宛の法蔵寺縁起書上(同文書)は松平家との関連が強調され、法蔵寺建立を応永二年とし、松平親氏の菩提寺のため松平泰親が建立したとしている。

永享四年(一四三二)足利義教の富士御覧の際に祈願所としたことが、天文二二年(一五五三)の今川義元の寺領安堵状(同文書)のなかにみえる。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]彦根市南川瀬町

獅子吼山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。近江七弘誓ぐぜい寺の一つで、寺伝によれば、石畠いしばたけ弘誓寺と寺基を同じくし、開基伝承も同じく那須氏の系譜という。南北朝期より室町初期の聖徳太子先徳高僧連座絵像を所蔵しており、関東の横曾根の門流であったと思われる。二代善明のとき本願寺覚如の祥月の斎に相伴を許され、六代教恵は本願寺蓮如に常随して、近松ちかまつ(現滋賀県大津市)の番に勤仕している。七代教専のとき文明四年(一四七二)犬上いぬかみ佐目さめ(現同県多賀町)の山中に移転し、翌年五月堂舎を建立。寺号を法蔵寺と改めた。八世教明は永禄四年(一五六一)六月二〇日に権律師となっている(「口宣案」寺蔵文書)。歴代にはみえないが,智専が明応八年(一四九九)四月二八日に実如より蓮如筆の六字名号(楷書、寺蔵)に裏書を染筆されている。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]豊科町大字豊科 新田

成相新田町なりあいしんでんまち村の中央東側に位置する。浄土宗知恩院末。旧寺は初め成相新田の東方さい川右岸の平瀬養老ひらせようろう坂上の寺坂てらさか(現松本市)にあったが、永正三年(一五〇六)吉野よしの(現豊科町)の丸山丹後守によって成相新田の東南方二キロの吉野梶海渡かじがいとへ移建。開山は知恩院承蓮社伝誉上人。梶海渡には寺田てらだ寺所てらどこ大門田だいもんだ寺家田じけだ坊主田ぼうずだなどの地字がある。

五代目承蓮社然誉友故上人の時、慶長一六年(一六一一)松本城主石川氏家臣青山出羽・吉野村郷士丸山丹後守・岡村小兵衛によって新田町の方一町の堀ノ内(「信府統記」に「屋敷構え」とある)の現在地に移建。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]小川村瀬戸川 古山

曹洞宗に属し、瀬戸川せとがわ古山輪ふるやまわうちにある。山号を霊験山といい、本尊は釈迦如来。元臨済宗で、更級さらしな牧田中まきだなか(現信州新町)興禅こうぜん寺二世黙庵禅師の開くところで、当時は日影ひかげ押切おしきり(現小川村日影)にあって九世陵機まで続いたという(小川村誌・上水内郡誌)。開創の年次について「小川村誌」は興国三年(一三四二)とし、「上水内郡誌」は永和二年(一三七六)とし、定かでない。天文五年(一五三六)檀越古山城主大日方氏、筑摩つかま麻績おみ(現東筑摩郡麻績村)法善ほうぜん寺四世祝安樹聖(寿聖)を招請して再興し曹洞宗に改め、中興開山と称した。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]水海道市羽生町 台羽生

鬼怒きぬ川西岸に所在。羽生山と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来立像。かさねの墓があることで知られる。「相馬日記」などによれば、羽生はにゆう村の百姓与右衛門の後妻お杉の連れ子であるすけという男児は容貌が醜かったので、夫婦仲がうまくゆかず、お杉は慶長一七年(一六一二)に助を鬼怒川縁のよこ濠に沈めて殺した。翌年お杉は女児を産み、るいと名付けたが、累は助に似た容姿であったので、世の人は累を「かさね」とよんだ。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]広川町上中野

ひろ八幡神社の南西にある。西山浄土宗、もと総持そうじ(現和歌山市)末。地霊山と号し、本尊阿弥陀如来。開基は明秀。永享八年(一四三六)の創建。初め広村(現広川町)内の小名寺村てらむらにあったが、明秀に帰依した中野なかの(現同上)の土豪津守浄道・梅本覚言の二人が所領を寺地として寄付して移したのが現在地と伝えられる(続風土記)。畠山氏の庇護下で明秀が最初に建立した寺院で、その後紀北より紀中にかけて多くの西山派の寺院を建立し、念仏興行の基を築いた。もと常修庵・西帰庵・直西庵・梅陽軒・財徳院・財聚軒・受陽軒・自性軒の塔頭八坊があったが、江戸後期には受陽・自性の二坊のほかは廃絶していた。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]長岡市日赤町二丁目

大工だいく町南端部、徳宗とくしゆう寺と本妙ほんみよう寺の間にある。浄土宗、仏経山と号し、本尊阿弥陀如来。伝えによると、応仁二年(一四六八)妙見の会水みようけんのあいみず城主石坂与十郎が三河国赤坂あかさか宿(現愛知県岡崎市)の法蔵寺から入誉白鸚を招いて六日市むいかいちに開創。その後蔵王堂ざおうどう城主の請いに応じて蔵王に移転、次いで元和年中(一六一五―二四)に長岡築城に伴いいったん上寺かみてら町に移ることに決まったが、城地の都合で現在地に移った。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]門川町庵川

桜井さくらいにある。海福山と号し、日蓮正宗。本尊は十界大曼荼羅。貞和三年(一三四七)庵川いおりがわの領主源三河刑部(日頭)の開基。日頭は定善じようぜん(現日向市)二世日礼に帰依し、正伝しようでん寺を開創した。同寺は数年後に廃寺となるが、元亀元年(一五七〇)円心房日頭が同寺跡に法蔵寺を建立した。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]今市市大桑町 日向向

大桑おおくわ宿家並西方の高台にあり、今市へ向かう会津西街道の正面に位置する。真命山真光院と号し、浄土宗。本尊は鎌倉期の作と伝える阿弥陀如来像。寺伝によれば、康応元年(一三八九)新田義貞の一族により茶臼ちやうすくらさき城の麓に創建されたという。承応年間(一六五二―五五)あるいは万治二年(一六五九)会津西街道の整備とともに現在地に移ったとされる。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]爾志郡熊石町字根崎

日本海に面した海岸段丘上に所在。浄土宗。山号西向山、本尊阿弥陀如来。元禄六年(一六九三)江差阿弥陀寺三世至誉直雄が勢至菩薩を捧持して草庵を結び、勢至堂と称したのに始まるという(寺院沿革誌)。「福山秘府」には宝永六年(一七〇九)江差阿弥陀寺住職直雄が松前藩に願出て堂地を与えられ勢至堂を建立、熊石庵と称したとある。寛保元年(一七四一)七月一九日の離島大島噴火による津波のため堂宇が流失、留守居僧海心坊と老僕喜八が溺死した。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]右京区鳴滝泉谷町

黄檗宗。海雲山と号する。本尊は観音菩薩。黄檗僧百拙が享保一八年(一七三三)紀伊きい竹田たけだ(現京都市伏見区)にあった法蔵寺を譲受け、寺籍をここに移したもので、元文四年(一七三九)に金堂が竣工。方丈は百拙と親交の深かった近衛家熙(予楽院)が旧殿を永代の祈願所として寄進したものである(都名所図会)

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]美和町中橋 郷中

珠王山と号し、浄土宗。本尊は鉄造地蔵菩薩立像。「尾張国地名考」に「法蔵寺に開運地蔵とて蜂須賀小六殿の信向せられしといふ一丈余の鉄仏の本尊あり立像也」とあり、古くは蜂須賀はちすか村の蓮華れんげ寺奥院の地蔵で、僧良慶が開祖。天正年中(一五七三―九二)蜂須賀小六郎がこの地蔵の錫杖を盗み鑓印として、その後戦功をたて出世したので開運地蔵とよばれた。

法蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]八尾市郡川

高安山麓にあり、曹洞宗、山号大覚山、本尊聖観音。寺伝によれば、かつて当地に極楽寺と称する寺があり、元禄年中(一六八八―一七〇四)には禅宗黄檗派の僧が住していたが、寛延元年(一七四八)土佐の長宗我部氏の子孫好山が来住、中興して法蔵寺と改めたといい、好山を開基とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「法蔵寺」の解説

法蔵寺

和歌山県有田郡広川町にある浄土宗西山派の寺院。室町時代中期に建てられた鐘楼は国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の法蔵寺の言及

【山中郷】より

…1465年(寛正6)には政所執事伊勢貞親管轄の料所。1432年(永享4)足利義教の駿河下向に従った尭孝の《覧富士記》に〈山中の宿にて御ひるまのほどにぎはゝしさもかぎりなし〉と宿駅としてのにぎわいが記されるなど,古代以来の東海道交通上の要地で,その中心本宿には,14世紀末葉に西山浄土宗法蔵寺が教翁竜芸によって創建されていた。近世に東海道藤川宿が設けられると,宿駅の機能は失われた。…

※「法蔵寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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