日本歴史地名大系 「戸塚宿」の解説
戸塚宿
とづかじゆく
東は
建久二年(一一九一)一一月二二日の源頼朝寄進状写(県史一)で、「富塚内田畠屋敷」が長日不断本地供料として鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されている。同文書は検討の余地があるとされるが、「鶴岡八幡宮寺供僧次第」に供僧料田として「富塚」がみえるので、その頃に同宮に寄進され、次いで供僧らに配分されたものであるかもしれない。暦応三年(一三四〇)四月一六日の関東公方足利義詮寄進状(県史三)で「山内庄富塚郷内大泉八郎跡」が「新熊野山」に寄進されている。「新熊野山」は、建武五年(一三三八)とされる正続院雑掌申状事書案(同書)にみえる鎌倉の
近世は幕府直轄領。慶長九年(一六〇四)九月二三日の富塚郷検地目録(沢辺文書)で田七一町一反余、畑五一町六反余。延宝四年(一六七六)は田六九町四反余、畑八二町一反余(横浜市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報