戸塚宿(読み)とづかじゆく

日本歴史地名大系 「戸塚宿」の解説

戸塚宿
とづかじゆく

[現在地名]戸塚区戸塚とつか

東は上倉田かみくらだ村、南は金井かない村、西は汲沢ぐみざわ村、北は矢部やべ村、北東吉田よしだ村に接する。北東に清水しみず山・茶道ちやどう山・天神てんじん山がある。東海道が北東から西南に通り、鎌倉道が小名田宿たじゆくから東に分れ上倉田村に達する。柏尾かしお川が東境を流れ、鎌倉道に板橋の高島たかしま橋が架かり、東海道中に天王てんのう橋・西久保にしくぼ橋・第六天だいろくてん橋・坂上さかうえ橋などが架かり、一番いちばん坂・二番にばん坂がある。間道矢沢やざわ坂・みや坂・和田わだ坂がある。保土ほど宿(現保土ヶ谷区)へ二里九町、藤沢宿へ二里。

建久二年(一一九一)一一月二二日の源頼朝寄進状写(県史一)で、「富塚内田畠屋敷」が長日不断本地供料として鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されている。同文書は検討の余地があるとされるが、「鶴岡八幡宮寺供僧次第」に供僧料田として「富塚」がみえるので、その頃に同宮に寄進され、次いで供僧らに配分されたものであるかもしれない。暦応三年(一三四〇)四月一六日の関東公方足利義詮寄進状(県史三)で「山内庄富塚郷内大泉八郎跡」が「新熊野山」に寄進されている。「新熊野山」は、建武五年(一三三八)とされる正続院雑掌申状事書案(同書)にみえる鎌倉の聖福しようふく新熊野いまくまの社であろう。応仁元年(一四六七)九月一一日の沢部森忠等連署押書(同書)では「富塚郷之内雲頂庵分」とある。このときは富塚とみづか郷内に鎌倉円覚寺雲頂うんちよう庵領があり、毎年八貫二〇〇文と米九斗ずつを風水旱損にかかわらず納めるとしている。文亀元年(一五〇一)一一月二七日の久甫淳長置文(同書)では雲頂庵に宛て、戸塚は世上静謐のうえ庵務されよといっている。小田原衆所領役帳には山角刑部左衛門「六拾壱貫四百廿四文 東郡富塚木曾分」とある。

近世は幕府直轄領。慶長九年(一六〇四)九月二三日の富塚郷検地目録(沢辺文書)で田七一町一反余、畑五一町六反余。延宝四年(一六七六)は田六九町四反余、畑八二町一反余(横浜市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報