日本歴史地名大系 「保土ヶ谷宿」の解説
保土ヶ谷宿
ほどがやじゆく
東海道の宿場の一。保土ヶ谷町・
慶長六年(一六〇一)一月、徳川家康は「ほとかや」宛伝馬朱印状と伝馬定書(県史九)を下し、保土ヶ谷宿を東海道の宿駅と定めた。伝馬定書によれば常備馬数三六、藤沢宿と神奈川宿の間の伝馬を受持ち、馬一匹につき居屋敷五〇坪の地子年貢の免除を受けた。また一駄は三〇貫と定められた。翌七年六月の駄賃定書(同書)によると保土ヶ谷―藤沢間荷物一駄四〇貫につき永楽銭一八文、保土ヶ谷―神奈川間は四文。寛永一七年(一六四〇)一一月の伝馬屋敷地子免許状(同書)により、宿常備人馬一〇〇人・一〇〇匹となり、保土ヶ谷宿に対して加増分六四匹、一匹につき一〇〇坪、屋敷二町一反三畝の地子免許状が与えられ、合計一万坪の年貢が免除された。天保(一八三〇―四四)頃の書上帳(保土ヶ谷区郷土史)によれば本陣苅部清兵衛家は持高三四石余、脇本陣水屋与右衛門家は持高六二石余、同藤屋四郎兵衛家は持高一石余、同大金子屋八郎右衛門家は持高一石余で、藤屋・大金子屋ともに飯盛女各二を抱えている。本陣・脇本陣いずれも保土ヶ谷町にあり、同町に茶屋本陣があった。問屋場は神戸町に一ヵ所あり、同町には高札場があるほか、毎年一二月二三日・二八日の両日には市が開かれた。
宝暦三年(一七五三)の保土ヶ谷四ヶ町村明細帳(保土ヶ谷区郷土史)では家数四二三、人数二千六五のうち男一千一〇二・女九六三。文化元年(一八〇四)の宿人別帳(県史九)では家数四四三、人数一千九二七のうち男一千一三・女九一四。「風土記稿」は家数四五三が町の西側に連なるという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報