デジタル大辞泉 「羽黒神社」の意味・読み・例文・類語 はぐろ‐じんじゃ【羽黒神社】 福島県福島市にある神社。欽明天皇の皇子、敏達天皇をまつる。毎年2月に行われる「信夫三山暁まいり」で、大わらじが奉納されることで知られる。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
日本歴史地名大系 「羽黒神社」の解説 羽黒神社はぐろじんじや 新潟県:両津市羽黒村羽黒神社[現在地名]両津市羽吉梅津(うめづ)川右岸台地上の外羽黒(そではぐろ)にある。祭神稲倉魂尊・大日霊尊・月読尊。「佐渡神社誌」には、宝亀元年(七七〇)出羽国より羽黒御林の五月雨(さみだれ)山に勧請と伝え、加茂(かも)・歌代(うたしろ)より鷲崎(わしざき)までの村々の総鎮守という。現金井(かない)町安養寺(あんようじ)の羽黒権現の分霊との伝承もある。社伝によると、保延元年(一一三五)に山麓に移り、慶長一三年(一六〇八)に現在地に造立という。 羽黒神社はぐろじんじや 宮城県:志田郡松山町千石村羽黒神社[現在地名]松山町千石 大欅千石(せんごく)城跡と上野(うわの)館跡の中間の羽黒山にあり、祭神は倉稲御魂命。旧郷社。寛永一〇年(一六三三)頃と推定される絵図(仙台市博物館蔵)には、標高八二メートル余の千石城より「羽黒山三間程ひくし」とある。近世には羽黒権現と称し、志田郡松山郷一四ヵ村の総鎮守。「千石村安永風土記」に「堀川院御宇寛治五年、八幡太郎源義家朝臣東夷御征伐の砌、鎌倉権五郎景政、羽州三山権現へ祈願仕、羽黒権現ヲ当村へ勧請仕、羽山権現ヲ当郷次橋村へ勧請仕、月山権現ヲ当郡下伊場野村へ勧請仕。 羽黒神社はぐろじんじや 茨城県:下館市下館城下大町羽黒神社[現在地名]下館市甲 大町城下を見下ろす大(おお)町の台地に位置する。祭神は大己貴命・玉依姫命。旧郷社。文明一〇年(一四七八)下館に築城した水谷勝氏が、三年後に領内安堵を祈願して出羽国羽黒山の分霊を領内五ヵ所に分祀したのが起源とされる。天文一四年(一五四五)水谷正村は、さらに領内に二社を祀り、七社は七羽黒と称されたが、当社はその筆頭に位置し、水谷氏は社地六千坪、祭祀料三七石を寄進した。下館領内神社寺院并縁起旧跡(田宮家文書)には「下羽黒山大権現 別当天台宗王観院清滝寺 御朱印弐拾石 水谷伊勢守勝隆 天和四戊午年建立 水谷家之鎮守 祭礼毎年十月十四日より十七日迄」とあるが、元和四年(一六一八)は社殿を新築または修復したものといわれる(下館市史)。 羽黒神社はぐろじんじや 青森県:黒石市浅瀬石村羽黒神社[現在地名]黒石市浅瀬石 清川浅瀬石(あせいし)の中央部、東隣に長寿(ちようじゆ)院がある。祭神倉稲魂命。安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)によれば、建立年代は不詳だが、慶長(一五九六―一六一五)頃までは浅瀬石の五林沢(ごりんざわ)にあって羽黒権現堂といわれ、寛永七年(一六三〇)現在地に移ったという。星田氏由緒(浅瀬石郷土誌)によれば、羽黒権現は慶長二年浅瀬石城落城の際に兵火で焼失し、大浦(津軽)為信は千徳家遺臣秋元左衛門次郎為茂を天正一三年(一五八五)の十川萢(とがわやち)の功の故に星田為之大夫信康と改名させて社司に任じ、羽黒宮を再興したという。 羽黒神社はぐろじんじや 青森県:中津軽郡岩木町宮地村羽黒神社[現在地名]岩木町宮地 宮本宮地(みやじ)集落の南西約〇・八キロ、西目屋(にしめや)村への道筋の左手山裾にある。祭神は倉稲魂命で、旧村社。安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)によれば、大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創建と伝える。 羽黒神社はぐろじんじや 青森県:南津軽郡大鰐町大鰐村羽黒神社[現在地名]大鰐町大鰐大鰐集落南の茶臼(ちやうす)山中腹、薬師館(やくしだて)にある。祭神は倉稲魂命・誉田別命・大名持命・少彦名命・手力雄命・大国主命・八種雷命・菅原道真公、旧村社。 羽黒神社はぐろじんじや 茨城県:北相馬郡守谷町小山村羽黒神社[現在地名]守谷町小山小山(こやま)集落東南に鎮座。祭神白山姫命、配神市杵島姫命。旧村社。江戸時代の創建。もとは小山村某家の私祭神であったが、その家の未亡人が辰新田(たつしんでん)村の某と情を通じ、相手の歓心を得るため社殿を辰新田に遷座したことによって同地の鎮守神となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by