戸塚文卿(読み)とつかぶんけい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「戸塚文卿」の意味・わかりやすい解説

戸塚文卿
とつかぶんけい
(1892―1939)

カトリック司祭、医者。海軍軍医総監戸塚環海(かんかい)(1854―1932)の長男として神奈川県に生まれる。幕末の代表的蘭方(らんぽう)医静海(せいかい)の孫。東京帝国大学を卒業後、北海道帝国大学医学部助教授としてパリのパスツール研究所に留学中、伝道者になることを決意し、パリ大学神学部に学ぶ。帰国後、1925年(大正14)医療伝道を志して東京の品川に聖ヨハネ汎愛(はんあい)病院(現、桜町病院)を開く。結核療養施設ナザレト・ハウス(現、海上寮療養所)を創設。また、日本カトリック新聞社社長、雑誌『カトリック』編集長などとして、カトリック言論界にも活躍した。

[金井新二 2018年3月19日]

『『戸塚文卿著作集』5巻、別巻1(1964~1967・中央出版社)』

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20世紀日本人名事典 「戸塚文卿」の解説

戸塚 文卿
トツカ ブンケイ

大正・昭和期のカトリック司祭,医師,著述家



生年
明治25(1892)年2月11日

没年
昭和14(1939)年8月17日

出生地
神奈川県横須賀

学歴〔年〕
東京帝大医科大学〔大正5年〕卒

経歴
一高時代に受洗。大正10年北海道帝大助教授、同年パリのパスツール研究所に留学、13年サン・スルピス神学校で司祭に叙階され帰国。聖ヨハネ汎愛病院の経営と診療のかたわら著述。昭和5年月刊誌「カトリック」編集長、「カトリック新聞」社長。6年国際聖母病院初代院長、10年九十九里浜に海上寮病院を開設、14年東京小金井に桜町病院を設立。司祭、医師、著述家として活躍した。著書に「戸塚文卿著作集」(全5巻 中央出版社)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「戸塚文卿」の意味・わかりやすい解説

戸塚文卿
とつかぶんけい

[生]1892.3.12. 横須賀
[没]1939.8.17. 東京
カトリック司祭,医学者。洗礼名バンサン・ド・ポール戸塚静海の孫。 1916年東京帝国大学医科大学卒業。 1921年北海道帝国大学助教授のとき,パリのパスツール研究所に留学。滞欧中に進路を変更して 1924年カトリック司祭となった。翌年帰国,結核撲滅事業に献身し,千葉県海上郡に結核療養所海上寮 (1929) ,東京小金井に桜町病院 (1938) などを創立,また聖ヨハネ会を設立した。その間,国際聖母病院の開設を助け,国際赤十字会議にローマ教皇庁代表として出席した。 1931年には週刊『カトリック新聞』の創刊にあたり,のちに社長となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「戸塚文卿」の解説

戸塚文卿 とつか-ぶんけい

1892-1939 大正-昭和時代前期のカトリック司祭,医師。
明治25年2月11日生まれ。海軍軍医総監戸塚環海の長男。北海道帝大助教授としてパリ留学中,パリ-カトリック大神学部に転じ,大正13年司祭となる。千葉県にナザレト・ハウス(現海上寮療養所),東京に聖ヨハネ医院(現桜町病院)などを開設,医療福祉と結核予防事業につくした。昭和13年日本カトリック新聞社長。昭和14年8月17日死去。48歳。神奈川県出身。東京帝大卒。

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367日誕生日大事典 「戸塚文卿」の解説

戸塚 文卿 (とつか ぶんけい)

生年月日:1892年2月11日
大正時代;昭和時代のカトリック司祭;医師
1939年没

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