幕末期の蘭方(らんぽう)医。遠江(とおとうみ)国(静岡県)掛川(かけがわ)の町医戸塚維義(隆珀・培翁)の三男。名は維泰、字(あざな)は藻徳、号は春山。通称を春輔・亮斎といい、のち静海。漢学を松崎慊堂(こうどう)に、蘭学を伯母婿十束井斎(とつかせいさい)(1783―1843)に学ぶ。1820年(文政3)江戸へ出て宇田川榛斎(しんさい)に入門、その勧めで1824年長崎の吉雄権之助(よしおごんのすけ)(1785―1831)の塾へ入り、またシーボルトにも5年間学ぶ。シーボルト事件に連座し、高良斎(こうりょうさい)らとともに3か月入牢(にゅうろう)。出牢して後進の指導にあたる。1831年(天保2)帰郷後江戸へ出て開業、また松本良順らを指導した。1842年薩摩(さつま)藩主島津斉彬(なりあきら)の侍医。神田(かんだ)お玉が池の種痘所設立に参加。1858年(安政5)幕府奥医師となり、将軍徳川家定の治療にあたる。1862年(文久2)法印に叙せられ、静春院を称した。同年ボードインの来日を機に彼に学び、外科・産科に優れた。将軍徳川家茂(いえもち)・慶喜(よしのぶ)にも仕え、伊東玄朴(げんぼく)・坪井信道(しんどう)とともに蘭方の三大家とよばれた。1875年(明治8)シーボルト記念碑建立(現、長崎市諏訪(すわ)公園)にあたり伊藤圭介(けいすけ)と幹事を務めた。著作に『静海上府日記』『シーボルト処方録』など。明治9年1月29日没。墓は東京都台東(たいとう)区谷中(やなか)天王寺にある。
[末中哲夫]
(土屋重朗)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新