ポール(読み)ぽーる(英語表記)Alice Paul

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポール」の意味・わかりやすい解説

ポール
Paul, Alice

[生]1885.1.11. ニュージャージー,ムーアズタウン
[没]1977.7.9. ニュージャージー,ムーアズタウン
アメリカ合衆国の女性解放論者。女性参政権運動の指導者で,アメリカで初めて男女同権に関する憲法修正の運動を行なった。クェーカー教徒の家庭で育つ。1905年にスワースモア大学を卒業後,ニューヨークで社会福祉を学ぶ。その後イギリスに渡って 1906~09年セツルメント運動に携わり,その間女性参政権運動を扇動したとして 3度投獄された。バーミンガムロンドンの大学で研究を続け,アメリカのペンシルバニア大学で 1907年に修士号,1912年に博士号を取得した。アメリカに戻ってからは,過激な戦法で,連邦政府に対して女性参政権を定める憲法修正案の必要性を説いた。1912年全米女性参政権協会 NAWSAの議長に就任したが,方向性に相違があり,1913年には同志の過激派グループと「女性参政権のための議会連合」CUWS(1917全国女性党に改称)を設立した。デモ,ホワイトハウスでの抗議行動,決起集会などを組織したが,行動が過激だったため,1920年のアメリカ合衆国憲法修正第19条の批准までに 3回以上投獄された。1922年にアメリカン大学で法律の学位をとり,1927年に修士号,1928年に博士号を取得した。1923年,初の男女平等の権利に関する修正案(→男女平等権憲法修正案)を起草し連邦議会に提出したが可決されなかった。1920年代,1930年代に運動の実績を積み,国際連盟から女性の権利運動への支持をとりつけることに尽力した。1927~37年には女性研究財団 WRFの議長となり,1938年にはスイスジュネーブに本拠地を置く,女性の権利平等のための世界党(世界女性党)を創設した。その後も,世界の問題の多くは,政治の世界で女性に発言権がないためであるという主張を繰り返した。1942年に全国女性党の議長に選任され,女性の権利,特に合衆国憲法の男女の権利平等の修正案について活動を続けた。国連憲章の序文や,1964年の公民権法においても,男女同権への言及を求めて働きかけた。(→フェミニズム

ポール
Paul, Les

[生]1915.6.9. ウィスコンシン,ウォーキショー
[没]2009.8.13. ニューヨーク,ホワイトプレーンズ
アメリカ合衆国のギタリスト,発明家。本名 Lester Polfuss。1941年,のちに「ギブソン・レスポール」と呼ばれ,エリック・クラプトンらが愛用したソリッドボディの電気ギター(エレキ・ギター)を考案した。1930~40年代はカントリー・アンド・ウェスタンジャズミュージシャンとして活躍。1950年代に 8トラックのテープレコーダを発明,多重録音技術を開発した。1977年,チェット・アトキンズとの共作『チェスター&レスター』Chester and Lester(1976)でグラミー賞受賞。2006年にもトリビュートアルバム『アメリカン・メイド・ワールド・プレイド』American Made World Played(2005)から 2曲がグラミー賞受賞。90歳を過ぎてもライブを続け,毎週ニューヨークのジャズクラブで演奏した。1978年グラミーの殿堂入り,1988年ロックの殿堂入り,2005年発明家の殿堂入りを果たした。2007年全米芸術勲章受章。

ポール
Pohl, Frederik

[生]1919.11.26. ニューヨーク,ニューヨーク
[没]2013.9.2. イリノイ,アーリントンハイツ
アメリカ合衆国の作家。フルネーム Frederik George Pohl。SFという手法を用いて社会を批判し,病める社会における科学技術の長期的な影響を模索した。高校を中退したが,20歳の頃には SF雑誌の編集に携わっていた。1930年代後半に SFの愛好者団体フューチャリアンズに参加。同団体にはアイザック・アシモフや,のちにポールと共作する C.M.コーンブルースも所属していた。1953年,コーンブルースとの共著宇宙商人』The Space Merchantsを発表。これは広告代理店で働いた経験から着想を得た作品で,代表作といわれている。ほかに,『マン・プラス』Man Plus(1976,ネビュラ賞),『ゲイトウエイGateway(1977,ネビュラ賞,ヒューゴー賞),『JEM』(1980,全米図書賞)など。1998年に SF・ファンタジーの殿堂入りを果たした。

ポール
Pole, Reginald

[生]1500.3. スタッフォードシャー
[没]1558.11.17. ランベス
イギリス,カンタベリー大司教。エドワード4世の姪の子。 1518年聖職につき,1521年大陸へ留学。 1523年帰国し,エクセター司祭長となった。 1532年ヘンリー8世の離婚に反対し,1536年教皇と王の最終的決裂の際大陸に逃れ,同年ローマで枢機卿となった。 1545年トリエント公会議を主宰し,カトリックの改革に尽力した。 1546年教皇候補にあげられたが選挙に敗れ引退。メアリーの即位 (1553) により 1554年教皇使節として帰国。 1556年 T.クランマーの後任としてカンタベリー大司教となり,国教会のカトリック化を促進した。しかしフランスとの対立により翌年教皇使節を罷免され,ローマへ召喚されようとしたが,女王の死去の直後に病死。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポール」の意味・わかりやすい解説

ポール(Lewis Paul)
ぽーる
Lewis Paul
(?―1759)

イギリスの発明家。その経歴は不明の点が多い。回転速度の異なる数組のローラーによる粗糸の引伸しの原理を最初に紡績に適用し、アークライトの先駆をなしたことで知られる。1730年ごろ、布地の装飾加工用の機械を考案、この事業を続けるかたわら、ワイアットの協力を得て、1738年に紡績機の特許を取得、1741年にバーミンガムにロバを動力とする紡績工場を設立したが成功せず、2年後に閉鎖。1748年に梳綿(そめん)機、1758年には新たに紡績機の特許を取得したが、この機械ではローラーによる引伸しの機構は用いられていない。ポールの紡績機は実用機としては未完成で、着想においてアークライトに先んじた点に技術史的意義をもつ。

[水野五郎]


ポール(Alice Paul)
ぽーる
Alice Paul
(1885―1977)

アメリカの女性運動家。ニュー・ジャージー州ムーアスタウン生まれ。21歳のころからイギリスでセツルメント運動に参加。帰国し1912年から全国アメリカ婦人参政権協会の運動に加わったが、翌1913年独自に婦人参政権連邦同盟を結成。憲法修正に基づく女性参政権の獲得を目ざして大統領や議会に働きかけた。1917年全国婦人党を結成し執行委員会議長。1927年婦人調査協会議長。1930年南北アメリカ婦人委員会北米議長。国際連盟の国籍に関する婦人諮問委員会委員として男女平等を国際的に訴えた。第二次世界大戦後も男女平等の運動を継続し、憲法修正案の議会通過(1970)などに貢献した。

[河内信幸]

『C. A. LunardiniFrom equal suffrage to equal rights ; Alice Paul and the National Woman's Party, 1910-1928(1986, New York University Press, New York)』


ポール(Reginald Pole)
ぽーる
Reginald Pole
(1500―1558)

宗教改革期のイギリスの教会政治家、枢機卿(すうききょう)、カンタベリー大司教。母はエドワード4世の姪(めい)。1513年から8年間オックスフォード大学で学んだのち、21年ヘンリー8世の命によりイタリアのパドバ大学に留学し、6年間ルネサンス期イタリアの学芸に接した。30年ヘンリー8世がヨーク大司教職を提供したが受けず、かえって彼の離婚問題を痛烈に批判して故国を去った。36年教皇パウルス3世に招かれてトレント公会議を司会し、その敬虔(けいけん)、誠実、純粋な人柄は多くの人々の信頼を得た。53年メアリーが王位についたとき帰国し、56年カンタベリー大司教に任じられたが、メアリー女王の死の12時間後に四日熱マラリアで死去した。

[今野國雄]

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