戸河内村(読み)とごうちむら

日本歴史地名大系 「戸河内村」の解説

戸河内村
とごうちむら

[現在地名]戸河内町 下本郷しもほんごう上本郷かみほんごう松原まつばら猪山いのしやま一帯、加計かけ町加計

東は戸谷とだに村・長笹ながささ(現豊平町)、西は石見国美濃みの下道川しもみちかわ(現島根県美濃郡匹見町)、南は上筒賀かみつつが(現筒賀村)、北は橋山はしやま(現芸北町)と境を接する。村内で太田おおた川が支流柴木しわぎ川と合流し東流する。村の規模は広島藩領内最大で、そのほとんどが山林であるが、四二集落が本郷田吹たぶき土居どい寺領じりよう吉和郷よしわごう・猪山・松原・柴木の八組に編成され、山地の枝郷・飛郷が著しい。村名は応永三五年(一四二八)八月一九日の祖綱外四名連署寄進状(実際寺文書)に「安芸国山県郡大田郷戸河内村」とみえるが、寛永一五年(一六三八)の地詰以前は、殿河内とのごうち村を包括した地域をさしていた(国郡志下調書出帳)。明治三四年(一九〇一)勝草かつそう安中あんじゆうを加計町に編入した。

貞治五年(一三六六)八月三日の実際寺領与一野年貢帳写(実際寺文書)によると、この与一野よいちのは上名・円原えんばら名・神田名・治田原じたわらの四つの名からなり、それぞれに名主がいて、道珎は三貫五五〇文、近助は二貫文、道民は二貫文、道春は三貫文の名主給を得ている。しかし年貢帳を実際じつさい寺の納所に宛てて差出しているのは以上の名主ではなく、二郎大夫・いや二郎・孫三郎・願行・法善・黒田で、彼らが現地の管理と年貢の収納に当たっていた。また応永元年一二月一七日の大内義弘安堵状(同文書)に「安芸国太田郷実際寺領事、任皈源寄附状之旨、停止万雑公事、寺家領掌不可有相違之状如件」とあって、大内氏の勢力が及んでおり、実際寺領の課役が免ぜられている。


戸河内村
とがうちむら

[現在地名]羽須美村戸河内

東流する出羽いずわ川南岸、阿須那あすな村の南東に位置し、東に伴蔵ばんぞう(五〇一・六メートル)がそびえる。南は長瀬ながせ川を挟んで安芸国川根かわね(現広島県高宮町)・同国生田いけだ(現同県美土里町)。伴蔵山南西の戸河内峠から村の中央を東流する戸河内川に沿って耕地が開ける。中世には安須那あすな庄のうちに含まれていた。康応二年(一三九〇)筆写の大方広仏華厳経(広島県東広島市大宮神社蔵)の奥書に、「安須那庄戸河内村」の正法庵において無照光公禅師を願主として筆写されたことが記される。


戸河内村
へかないむら

[現在地名]平泉町平泉

達谷たつこく村の北に位置し、村内を戸河内川が東流し、東の中尊寺村境手前でころも川に注ぐ。往古は「衣ノ里」と称したという(安永風土記)。弘安二年(一二七九)二月三日の永栄置文(中尊寺文書)に中尊寺大長寿だいちようじゆ院の四至として「にしはへかなひ川くさひさはへかきる」とある。寛永一八年(一六四一)の戸河内村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方一八町一反余・代二二貫一九〇文、畑方二二町二反余・代六貫二二九文、名請人数二〇。正保郷帳では田一九貫二五三文・畑五貫三〇五文、ほかに新田一三貫八六一文。前掲風土記では田二八貫七七八文・畑八貫八九八文、うち蔵入三六貫四九九文・給所一貫一七七文。


戸河内村
とごうちむら

[現在地名]布野村戸河内

下布野しもふの村の北東、布野川の支流戸河内川沿いに南北に細長い谷に立地。「国郡志下調書出帳」によると、水田石高三四三石余のうち、一三七石余は村内五ヵ所の溜池灌漑に依存している。元和五年(一六一九)の備後国知行帳は「戸川内村」と記し、寛永九年(一六三二)の因幡守様御領分所付之目録(鳳源君御伝記「三次分家済美録」所収)に戸河内村とある。前記書出帳には「往古ハ西河内村之城主河内治部丞隆孚之領地ニ御座候より、夫故戸河内村と唱来し趣申伝候」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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