布野村(読み)ふのむら

日本歴史地名大系 「布野村」の解説

布野村
ふのむら

[現在地名]長野市大字小島こじま

千曲川の左岸にあり、南八幡堰やわたせぎ川・北八幡堰川が村内を東流している。東は村山むらやま村と用水路等で境し、西は小島村北長池きたながいけ村と、南は北長池村と境する。

諏訪御符礼之古書(諏訪大社上社文書)の寛正五年(一四六四)の条に「右頭古野」、応仁二年(一四六八)の条に「布野代官中島佐渡守長吉」、文明六年(一四七四)の条に「宮頭古野代官佐渡守長能」などみえ、「和名抄」の古野郷のなごりで布野と称したと伝える。

布野村
ふのむら

[現在地名]和田町布野

磑森するすもり村の北東に位置する。江戸時代中期まで真浦もうら村に含まれていたが、元禄一二年(一六九九)西白渚にししらすか村とともに分村したと伝える(明治元年「分村事蹟并口牌之記」真浦区有文書)。元文村高帳に村名がみえ、高八一石余、うち旗本松平定蔵領六三石余・同前田孝始領一七石余。両家が安房知行を与えられたのは元禄一〇年(寛政重修諸家譜)。以後両家に伝えられたが、天保一四年(一八四三)武蔵忍藩領となる(忍藩領郷村高帳)。嘉永六年(一八五三)上知され、旧高旧領取調帳では上野前橋藩領。この間、村高に変動はない。

布野村
ふのむら

[現在地名]小見川町布野

川頭かわがしら村の南東に位置する。天正二〇年(一五九二)正月二五日の松平家忠知行書立に麻野郷とみえるのが当地と思われ、同郷の二五二石余が家忠領となっている。寛文四年(一六六四)の内田正衆領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野鹿沼藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一一〇石余で同藩領。享保九年(一七二四)小見川藩領となる。宝暦一三年(一七六三)の取米四一石余で小物成永三八文、家数二二・人数一二五(高野家文書)。天保九年(一八三八)の小見川藩領郷村高辻帳(関家文書)でも同藩領。同一〇年の水野氏領十四村高帳(多田家文書)に高一一〇石余とあり、遠江浜松藩領になっている。

布野村
ふのそん

面積:八二・一〇平方キロ

北は赤名あかな峠を隔てて島根県飯石いいし赤来あかぎ町と、南は三次みよし市と境を接し南北一九キロ、東西四・五キロの細長い村。中国山脈南側斜面に立地し、南北両端の標高差は五〇〇メートルを超す。中央を布野川が流れ、ほぼ平行して広島・松江を結ぶ国道五四号が貫通し、集落もおおむねこれに沿って分布する。古来、農業と鑪製鉄が行われ、山陰山陽を結ぶ雲石路の宿駅のあった地であるが、鑪製鉄は明治中期洋鉄に押されて姿を消し、宿駅も貨物自動車が出現するに及び、その機能を失った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報