日本歴史地名大系 「殿河内村」の解説 殿河内村とのがわうちむら 鳥取県:西伯郡岸本町殿河内村[現在地名]岸本町大殿(おおとの)大寺(おおてら)村の北西、日野川下流左岸の平坦な沖積地上に位置し、南は長者原(ちようじやはら)台地、北は新庄(しんじよう)の平野につながる。五千石(ごせんごく)井手が村の中央を流れ、日野川を隔てて東は遠藤(えんどう)村。村名の由来は、地内の正殿大明神にちなむとか(伯耆志)、古代会見(あいみ)郡の郡家の所在地であったことによるとかいわれ(続五千石風土記)、「とのがわち」ともよぶ。なお享和三年(一八〇三)には、北西の分部(わけぶ)が新田として届出された(藩史)。拝領高は五六二石余、本免は四ツ二歩。藪役銀九匁・川役銀二匁が課せられ(同書)、乾氏の給所であった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七一七石余、竈数三二。 殿河内村とのごうちむら 島根県:飯石郡三刀屋町殿河内村[現在地名]三刀屋町殿河内三刀屋川が大きく蛇行する両岸にあり、北は尾崎(おさき)村、西は掛合宮内(かけやみやうち)村。明徳三年(一三九二)七月一一日の京極高詮安堵状(佐方文書)では「多禰郷内戸野賀内」とみえ、佐方九郎左衛門尉に安堵されている。応永一七年(一四一〇)四月一三日の京極高光安堵状(同文書)では多禰(たね)郷内「殿垣内」が佐方左京亮に安堵された。このように明徳期以降は、隣接する三刀屋郷を支配した諏訪部氏(三刀屋氏)の一族佐方氏の所領であったが、文明年間(一四六九―八七)頃に多禰郷の支配は尼子氏の近臣多賀氏に移ったとされる。 殿河内村とのがわちむら 鳥取県:西伯郡中山町殿河内村[現在地名]中山町殿河内上市(うわいち)村の南東、下市(しもいち)川下流の右岸丘陵上に位置する。汗入(あせり)郡に属し、拝領高一九八石余、本免四ツ九歩。落合氏の給地があり(給人所付帳)、同氏の物成米は御来屋(みくりや)村(現名和町)の後藤吉左衛門方へ納められた(「在方諸事控」宝暦一一年九月二〇日条)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二三六石余、竈数二六。藪役銀六匁を課されていた(藩史)。農閑期には油糟の製造が行われ、会見(あいみ)郡の浜の目(はまのめ)や淀江(よどえ)村(現淀江町)などの綿作地帯に海上輸送し、販売した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by