日本大百科全書(ニッポニカ) 「手塚律蔵」の意味・わかりやすい解説
手塚律蔵
てづかりつぞう
(1822―1878)
蘭学(らんがく)者。周防(すおう)国(山口県)熊毛(くまげ)郡に医師手塚寿仙の次男として生まれる。名は謙。長崎に遊学、高島秋帆(たかしましゅうはん)(1798―1866)に蘭学、造船術などを学び、のち英学にも長じた。1850年(嘉永3)江戸に出たが、国粋論者の追及を逃れるため母方の姓を名のって瀬脇寿人(せわきひさと)と変名し、下総(しもうさ)国(千葉県)佐倉に移り、1851年佐倉藩に仕え、蘭書の翻訳に従事した。1856年(安政3)江戸の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授手伝いとして出仕、かたわら本郷元町に私塾を開いた。西周助(周(あまね))、神田孝平(かんだたかひら)、津田仙らはその門人である。明治維新後、東京開成所教授を経て、外務省に出仕、1876年(明治9)外務省七等出仕貿易事務官として、ロシアのウラジオストクに往来し、日本とロシアの貿易の振興に尽力したが、明治11年1月29日帰国の船中で病死した。著訳書には『海防火攻新覧』『泰西史略』『熕手(こうしゅ)要覧』『万国図誌』があり、また『伊吉利(イギリス)文典』The Elementary Chatechismus, English Grammar1850年版を復刻した。
[中山 沃]