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手塚律蔵 てづか りつぞう

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

手塚律蔵 てづか-りつぞう

1822-1878 幕末-明治時代の洋学者。
文政5年6月8日生まれ。高島秋帆,坪井信道にまなぶ。嘉永(かえい)4年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)につかえ,のち江戸本郷に私塾をひらき,西周(あまね),神田孝平らをおしえた。維新後,開成学校教授をへて,外務省貿易事務官となった。明治11年11月29日死去。57歳。周防(すおう)(山口県)出身。別名に瀬脇良弼,瀬脇寿人など。訳書に「泰西史略初編」「万国図誌」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

手塚律蔵

没年:明治11.11.29(1878)
生年:文政5.6.8(1822.7.25)
幕末・明治前期の蘭・英学者。防州小周防村(山口県光市)生まれ。父は医師の手塚治孝(寿仙),母は瀬脇氏。17歳からの4年間長崎の高島秋帆に砲術を,21歳からの4年間は江戸の坪井信道に蘭学を学んだ。嘉永4(1851)年,佐倉藩(藩主は堀田正睦)に召され,蘭学教官として江戸藩邸で教育を開始,のち又新塾を開いた。英語の重要性を早くから認識,門人から西周,三宅秀,津田仙など優れた英学者を輩出した。攘夷論者の襲撃後,後難を恐れて瀬脇良弼と改名。維新後外務省に出仕し,ロシア・朝鮮事情を視察。ウラジオストク駐在より帰国途中病死,墓は青山墓地。<著作>『海防火攻新説』<参考文献>村上一郎「手塚律蔵研究」(『蘭学資料研究会報告』81号)

(加納孝代)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

手塚律蔵
てづかりつぞう
(1822―1878)

蘭学(らんがく)者。周防(すおう)国(山口県)熊毛(くまげ)郡に医師手塚寿仙の次男として生まれる。名は謙。長崎に遊学、高島秋帆(たかしましゅうはん)(1798―1866)に蘭学、造船術などを学び、のち英学にも長じた。1850年(嘉永3)江戸に出たが、国粋論者の追及を逃れるため母方の姓を名のって瀬脇寿人(せわきひさと)と変名し、下総(しもうさ)国(千葉県)佐倉に移り、1851年佐倉藩に仕え、蘭書の翻訳に従事した。1856年(安政3)江戸の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授手伝いとして出仕、かたわら本郷元町に私塾を開いた。西周助(周(あまね))、神田孝平(かんだたかひら)、津田仙らはその門人である。明治維新後、東京開成所教授を経て、外務省に出仕、1876年(明治9)外務省七等出仕貿易事務官として、ロシアのウラジオストクに往来し、日本とロシアの貿易の振興に尽力したが、明治11年1月29日帰国の船中で病死した。著訳書には『海防火攻新覧』『泰西史略』『熕手(こうしゅ)要覧』『万国図誌』があり、また『伊吉利(イギリス)文典』The Elementary Chatechismus, English Grammar1850年版を復刻した。[中山 沃]

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