津田仙(読み)つだせん

精選版 日本国語大辞典 「津田仙」の意味・読み・例文・類語

つだ‐せん【津田仙】

  1. 農学者。下総国千葉県佐倉藩士の子。梅子の父。外国奉行通弁から維新後渡米して西洋農法を学び、帰国後、リンゴの栽培、人工交配法などの西洋式農法の普及に努めた。明治八年(一八七五)には学農社を設立天保八~明治四一年(一八三七‐一九〇八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「津田仙」の意味・わかりやすい解説

津田仙
つだせん
(1837―1908)

明治初期の西洋農学者。天保(てんぽう)8年7月6日、下総(しもうさ)国(千葉県)佐倉藩士小島善右衛門良親(よしちか)の四男に生まれる。幼名千弥(せんや)、のち仙弥。1851年(嘉永4)桜井家の養子となる。57年(安政4)より江戸に出て蘭(らん)学、英学を学ぶ。61年(文久1)幕臣津田大太郎の婿養子となり、外国奉行(ぶぎょう)通弁に採用される。67年(慶応3)勘定吟味役小野友五郎の随員として福沢諭吉らとともに渡米、西洋農法に感銘を受けて帰国。69年(明治2)築地(つきじ)ホテル館に勤務、71年北海道開拓使嘱託となる。73年ウィーンの万国博覧会に出席、このとき知遇を得たオーストリアの農学者ダニエル・ホイブレンクの説をもとに翌年『農業三事(さんじ)』を著し、花粉媒助などによる米麦の増産法を提唱。大いに喧伝(けんでん)されたが、その効果については当時より賛否があった。75年学農社、76年学農社農学校を設立、同年『農業雑誌』、80年『北海道開拓雑誌』を発刊、西洋農法の普及に努めた。このころキリスト教に入信青山学院の前身になる学校組織の創設にも関与した。97年以降はいっさいの事業から退き、禁酒・禁煙運動などの社会活動を行った。明治41年4月24日没。女子英学塾津田塾大学の前身)の創立者津田梅子は仙の次女。

[船津 功]

『山崎孝子著『津田梅子』(1962・吉川弘文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「津田仙」の意味・わかりやすい解説

津田仙 (つだせん)
生没年:1837-1908(天保8-明治41)

欧米農法の導入者。下総国(千葉県)出身。生家は小島姓。青年時代に蘭学,英学を学ぶ。1861年幕臣津田家の養子となり,外国奉行のもとで通弁御用となる。67年福沢諭吉らとともに幕府特使小野友五郎に随行し渡米。維新後築地ホテルの理事となり,外人用の各種洋菜の導入栽培を始めた。73年オーストリア万国博覧会に派遣され,この際園芸学者D.ホーイブレンクから気筒法,偃曲(えんきよく)法(取木法),媒助法を学び,帰国後これを《農業三事》として出版し数万部を売りさばいた。75年学農舎を,76年学農舎農学校を設立,同時に《農業雑誌》を創刊,官製の路線とは別の,西欧化をめざす独自の農業像を掲げて精力的な活躍を続けた。しかし晩年は事業に挫折するなど,志半ばにして横須賀線の車中で脳溢血により生涯を閉じた。《農業新書》の大著がある。津田塾大学の創設者津田梅子は次女。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「津田仙」の解説

津田仙

没年:明治41.4.23(1908)
生年:天保8.7.6(1837.8.6)
明治期の農学者,教育家。各分野で欧化思想を実践した。佐倉藩(千葉県佐倉市)の藩士小島良親の子。早くから洋学を学び,文久1(1861)年幕臣津田栄七の養嗣子となる。明治維新後に築地ホテル館に勤務し,サラダ用の西洋野菜の将来性に注目した。明治6(1873)年,ウィーン万博に農業部門担当員として出張。同地でオランダ人園芸家ダニエル・ホーイブレンから伝授された新農法を,帰国後に『農業三事』(1874)として出版し評判になった。しかし内容的に不十分な点もあり,当時も賛否両論があった。9年,学農社という農学校を開校し,『農業雑誌』『開拓雑誌』など定期刊行物を出版して,欧米文化の紹介に尽くした。熱心なキリスト教徒で,青山学院(女子部)の前身の小学校をはじめミッション校の創立に協力した。禁酒雑誌『日の丸』を出版するなど日本の禁酒運動の先駆者でもあった。次女の梅子は女子英学塾(津田塾大)の創設者。<参考文献>都田豊三郎『津田仙』,大西伍一『日本老農伝』

(筑波常治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津田仙」の意味・わかりやすい解説

津田仙
つだせん

[生]天保8(1837).佐倉
[没]1908.4.24. 横須賀
日本における西洋農学の先駆者。佐倉藩士の家に生れ,蕃書調所に学んで慶応3 (1867) 年渡米,帰国後は築地ホテルに勤めた。 1873年ウィーンの万国博覧会に出張,オーストリアの農学者 D.ホーイブレンクに農学を学び,翌年帰国して『農業三事』を発表,気筒埋没法,樹枝偃曲法,媒助法の三事法を奨励。人工的に花粉交配を助ける媒助法では「津田縄」という用具をつくって販売した。 75年学農社を設立,76年学農社農学校を開校,機関誌『農業雑誌』を発行して西洋農学の導入,普及に努めた。津田梅子はその次女。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「津田仙」の解説

津田仙 つだ-せん

1837-1908 明治時代の農学者,教育者。
天保(てんぽう)8年7月6日生まれ。下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩士小島善右衛門の子。津田梅子の父。幕臣津田栄七の婿養子。洋学をまなび,外国奉行支配通弁となる。慶応3年通訳として渡米。明治6年ウィーン万博に参加し西洋農法をまなぶ。学農社農学校をひらき,新農法の普及につくし,また禁酒運動をすすめた。明治41年4月24日死去。72歳。著作に「農業三事」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「津田仙」の意味・わかりやすい解説

津田仙【つだせん】

明治初期の農学者。佐倉藩士の子。1867年渡米し,大農法に着目。1873年ウィーン万国博に出席,翌年《農業三事》を発表して新農法を紹介。1876年《農業雑誌》を発行,学農社を設立して農業改良事業の人材を育成。津田梅子は次女。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android