明治初期の西洋農学者。天保(てんぽう)8年7月6日、下総(しもうさ)国(千葉県)佐倉藩士小島善右衛門良親(よしちか)の四男に生まれる。幼名千弥(せんや)、のち仙弥。1851年(嘉永4)桜井家の養子となる。57年(安政4)より江戸に出て蘭(らん)学、英学を学ぶ。61年(文久1)幕臣津田大太郎の婿養子となり、外国奉行(ぶぎょう)通弁に採用される。67年(慶応3)勘定吟味役小野友五郎の随員として福沢諭吉らとともに渡米、西洋農法に感銘を受けて帰国。69年(明治2)築地(つきじ)ホテル館に勤務、71年北海道開拓使嘱託となる。73年ウィーンの万国博覧会に出席、このとき知遇を得たオーストリアの農学者ダニエル・ホイブレンクの説をもとに翌年『農業三事(さんじ)』を著し、花粉媒助などによる米麦の増産法を提唱。大いに喧伝(けんでん)されたが、その効果については当時より賛否があった。75年学農社、76年学農社農学校を設立、同年『農業雑誌』、80年『北海道開拓雑誌』を発刊、西洋農法の普及に努めた。このころキリスト教に入信、青山学院の前身になる学校組織の創設にも関与した。97年以降はいっさいの事業から退き、禁酒・禁煙運動などの社会活動を行った。明治41年4月24日没。女子英学塾(津田塾大学の前身)の創立者津田梅子は仙の次女。
[船津 功]
『山崎孝子著『津田梅子』(1962・吉川弘文館)』
欧米農法の導入者。下総国(千葉県)出身。生家は小島姓。青年時代に蘭学,英学を学ぶ。1861年幕臣津田家の養子となり,外国奉行のもとで通弁御用となる。67年福沢諭吉らとともに幕府特使小野友五郎に随行し渡米。維新後築地ホテルの理事となり,外人用の各種洋菜の導入栽培を始めた。73年オーストリア万国博覧会に派遣され,この際園芸学者D.ホーイブレンクから気筒法,偃曲(えんきよく)法(取木法),媒助法を学び,帰国後これを《農業三事》として出版し数万部を売りさばいた。75年学農舎を,76年学農舎農学校を設立,同時に《農業雑誌》を創刊,官製の路線とは別の,西欧化をめざす独自の農業像を掲げて精力的な活躍を続けた。しかし晩年は事業に挫折するなど,志半ばにして横須賀線の車中で脳溢血により生涯を閉じた。《農業新書》の大著がある。津田塾大学の創設者津田梅子は次女。
執筆者:安田 健
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(筑波常治)
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