西周(読み)ニシアマネ

デジタル大辞泉 「西周」の意味・読み・例文・類語

にし‐あまね【西周】

[1829~1897]哲学者啓蒙思想家。石見いわみの人。津和野藩医の子。オランダに留学、帰国して、開成所教授。森有礼らと明六社を結成し、西洋哲学の紹介、啓蒙思想の普及に努めた。著「百一新論」「致知啓蒙」「百学連環」など。

せい‐しゅう〔‐シウ〕【西周】

しゅう

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精選版 日本国語大辞典 「西周」の意味・読み・例文・類語

にし‐あまね【西周】

  1. 幕末・明治の蘭学者、哲学者。男爵。石見国(島根県)の人。通称経太郎、のち周助、維新後は周。文久二年(一八六二)、榎本武揚津田真道らとオランダに留学。帰朝後、開成所教授となる。幕命によって万国公法の翻訳を大成。維新後、明六社に参加、西欧文明の紹介に努めた。東京学士会院院長、元老院議官を歴任。主著「百一新論」「致知啓蒙」「利学」など。文政一二~明治三〇年(一八二九‐九七

せい‐しゅう‥シウ【西周】

  1. 中国古代の王朝、周の前半期。武王が殷を滅ぼして建国して以来、紀元前七七一年に犬戎の侵寇によって平王が東遷するまでの時代。都が鎬京(陝西省西安)にあったので西周とよばれ、のちに洛陽(河南省河南)に都した東周と区別される。王室の権威が保たれた周の全盛時代。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西周」の意味・わかりやすい解説

西周(にしあまね)
にしあまね
(1829―1897)

啓蒙(けいもう)思想家。石見国(いわみのくに)(島根県)津和野に藩医の子として生まれる。名は時懋(ときしげ)。幼名を経太郎(みちたろう)、長じて周助と称し、のち周と改めた。幼少より学問を好み、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となった。朱子学を奉じながら徂徠学(そらいがく)を好んだ。

 1853年(嘉永6)江戸詰(えどづめ)となり、ペリー来航の情勢のなかで西洋学へ転じ、ついに脱藩して手塚律蔵の門に入り、蘭学(らんがく)を修め、ついで英学を志した。1857年(安政4)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の開設とともに教授手伝並(てつだいなみ)となり、1859年医師石川有節の娘升子(ますこ)(1841―1921)と結婚した。1863年(文久3)、軍艦買付けのためにオランダに向かう幕府の使節に加わって、同僚津田真道(つだまみち)らとオランダ留学へと出発、ライデン大学フィセリングSimon Vissering(1818―1888)教授のもとで、法律・経済・哲学などを熱心に学んだ。

 1865年(慶応1)帰国し、翌1866年開成所教授に昇進、留学中の講義ノート「万国公法」などの翻訳に従事した。この年、京都に上り将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の顧問としてフランス語の教授にあたった。また、1867年、大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出した。このころ、自宅に私塾を開設し西洋思想を講義した。1874年(明治7)に出版された『百一新論』は、このときの講義筆録をもとにしている。

 1868年、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに続く混乱をくぐり抜けて、ようやく江戸に帰ったのち、徳川の遺臣たちが子弟の教育のために沼津に設立した兵学校に頭取として招かれ、制度の確立にあたった。1870年(明治3)、政府の命により東京に移って兵部省に出仕、山県有朋(やまがたありとも)のもとで近代的な軍事制度の創設に携わった。公務のかたわら自宅に私塾育英舎を開設し、「百学連環」などを講義した。哲学者清野勉(きよのつとむ)(1853―1904)はここに学んだ一人である。

 1873年に森有礼(もりありのり)らと明六社(めいろくしゃ)を結成し、精力的に啓蒙活動を展開した。『明六雑誌』に、功利主義に基づく倫理思想を展開した「人世三宝説」(1875)をはじめ多くの論文を寄稿し、また、J・S・ミルの『A System of Logic』による論理学書『致知啓蒙』(1874)、同じミルの『Utilitarianism』の翻訳『利学』(1877)などを刊行した。このほか、心理学、美学などの著書もある。その後、東京師範学校(現、筑波(つくば)大学)校長、学士会院院長、貴族院議員などを歴任、1897年男爵に叙せられ、同年(明治30)没した。

[渡辺和靖 2016年9月16日]

『大久保利謙編『西周全集』全4巻(1966・宗高書房)』



西周(せいしゅう)
せいしゅう

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百科事典マイペディア 「西周」の意味・わかりやすい解説

西周【にしあまね】

明治の思想家。石見(いわみ)国津和野藩医の子。脱藩して蕃書調所に出仕。1862年津田真道らとオランダに留学,フィセリングに哲学,法学等を学ぶ。大政奉還前後徳川慶喜の政治顧問となり,明治政府では軍人訓誡,軍人勅諭の起草に関係。明六社同人として啓蒙活動を行った。著書《百一新論》《致知啓蒙》等。全集がある。
→関連項目赤松則良軍人訓誡言文一致公議政体論津和野[町]哲学独協大学沼津兵学校ローマ字運動

西周【せいしゅう】

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改訂新版 世界大百科事典 「西周」の意味・わかりやすい解説

西周 (にしあまね)
生没年:1829-97(文政12-明治30)

明治前半期の啓蒙思想家。石見国(島根県)津和野藩医の家に生まれる。荻生徂徠の学問に関心をもったが,1853年(嘉永6)江戸に出たのち洋学を学びはじめ,手塚律蔵や中浜万次郎に英語を学んだ。57年(安政4)蕃書調所教授手伝並となり,62年(文久2)幕府派遣留学生として津田真道らとオランダに留学。ライデン大学のフィセリング教授から政治,経済等を学び,留学中コントの実証主義やJ.S.ミルの功利主義,およびカントの恒久平和の思想に感銘した。65年(慶応1)帰国し,翌年開成所教授職となった。大政奉還に際し徳川慶喜のために〈議題草案〉を起草し,68年《万国公法》を訳刊した。沼津兵学校頭取を経て,70年兵部省に出仕ののちは明治新政府の軍制整備に活躍し,とくに78年〈軍人訓誡〉を起草し80年には〈軍人勅諭〉の初稿を起案するなど,軍人精神の確立に寄与した。この間,73年結成の明六社に参加し,《明六雑誌》に次々と寄稿して啓蒙思想期の第一人者となった。74年に《百一新論》《致知啓蒙》,75年に《心理学》,77年に《利学》を著して,哲学,理性,主観等の哲学用語を考案し,近代哲学の最初の移植者となった。東京学士会院会長,文部省御用掛兼東京師範学校長,元老院議官を歴任したが,健康を害し86年に公職を退いた。その業績は《西周全集》全3巻に収められている。
執筆者:


西周 (せいしゅう)
Xī Zhōu

中国古代の周王朝が,前771年犬戎によって都の宗周(西安市西郊)を追われ,東の成周(河南洛陽市)にうつるまでの間をいい,それ以降を東周という。

執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「西周」の解説

西周

没年:明治30.1.31(1897)
生年:文政12.2.3(1829.3.7)
啓蒙思想家,日本最初の西洋哲学者。幕府開成所教授,東京学士会院会長,東京師範学校校長,元老院議官,貴族院勅選議員。石見国(島根県)津和野藩の医家の長男。父は時義,母はカネ。若くして朱子学を学び,荻生徂徠にも啓発された。ペリーの来航によって蘭学,洋学の必要を悟り,脱藩して蘭学を学び,英学を杉田成卿,手塚律蔵に学び,英語の発音を中浜万次郎に学んだ。幕府留学生としてオランダのライデン大学でシモン・フィッセリングに師事し,法学,経済学,統計学などを学んだが,J.S.ミル,A.コントの哲学に共鳴した。維新後明治政府に招かれ陸軍省,文部省に勤務,かたわら私塾育英舎を開いた。明六社創立(1874)に参加し活躍した。新しい時代の青年を教育するために学問全体の統一的理解の必要を感じ,『百一新論』(1874)でこの統一科学の試みを「哲学」と称した。彼の哲学はミル,コントの実証主義哲学をモデルとし,自然科学の土台の上に社会,人文科学を積み重ねる学問体系を志し,これらの諸科学をつなぐ環となる原理を物理と心理,学と術,コントの歴史3段階説,ミルの帰納法などに求めたが,未完成に終わった。のちに人間性論に関心を移して人間論を展開。彼は主観,客観,概念,観念,理性,悟性,感性,演繹,帰納,定義,命題,実体,属性など多くの哲学用語を訳出。山県有朋の下で軍事政策にも参画し『軍人勅諭草案』(1880)を著した。<著作>『西周全集』全4巻<参考文献>小泉仰『西周と欧米思想との出会い』

(小泉仰)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西周」の意味・わかりやすい解説

西周
にしあまね

[生]文政12(1829).2.3. 石見,津和野
[没]1897.1.31. 大磯
啓蒙思想家。幼名は経太郎,名は時懋 (ときしけ) ,魚人,修亮,周助。明治以降は周と称した。号は天根,甘根,甘寝舎,甘寝斎。津和野藩医西時義の長子。初め儒学を学んだが,安政1 (1854) 年洋学に専念するために脱藩し,手塚律蔵の塾に学び,中浜万次郎に英語を学んだ。同3年蕃書調所教授手伝並となった。文久2 (62) 年幕命により,榎本武揚,津田真道らとオランダに留学,慶応1 (65) 年帰国して開成所教授となった。翌年徳川慶喜の政治顧問として京都に行き,私塾を開いて哲学を講義した。明治1 (68) 年沼津兵学校頭取となったが,同3年兵部省に出仕し,近代軍制の整備にあたった。 1873年福沢諭吉,森有礼,中村正直らと「明六社」の設立に参加。西洋哲学の紹介と啓蒙思想の普及に努めた。東京学士会院会長,元老院議官,貴族院議員を歴任。今日使われている哲学用語の多くは彼の手になる。著書に『致知啓蒙』 (74) ,『百一新論』 (74) ,『百学連環』,訳書に『万国公法』 (68) ,『心理学』 (75~76) ,『利学』 (77) などがある。

西周
せいしゅう

」のページをご覧ください。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西周」の解説

西周 にし-あまね

1829-1897 幕末-明治時代の思想家。
文政12年2月3日生まれ。石見(いわみ)(島根県)津和野藩医の子。オランダに留学,法学,経済学などをまなぶ。維新後は兵部省のち陸軍省で軍制の整備にあたり,軍人勅諭の原案を起草。明六社同人として啓蒙活動にもつとめ,「哲学」などの用語をつくった。貴族院議員。明治30年1月31日死去。69歳。名は時懋(ときしげ)。通称ははじめ周助。号は天根,甘寐斎。著作に「百一新論」,訳書に「万国公法」など。
【格言など】人間には三つの宝がある。健康と知識と富だ(「人世三宝説」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「西周」の解説

西周
にしあまね

1829.2.3~97.1.31

幕末~明治期の学者。石見国津和野藩医の家に生まれる。大坂・江戸遊学後の1854年(安政元)脱藩して洋学に専念。57年蕃書調所に出仕。62年(文久2)幕府留学生としてオランダに向かい,翌年から65年(慶応元)までフィセリングに師事。68年(明治元)「万国公法」を訳出し刊行。70年育英舎を開塾して「百学連環」を講義。明六社創立員となり74年「百一新論」などを刊行。78年参謀本部に出仕して近代軍制,軍人精神確立に参画。東京学士会院会長・元老院議官などを歴任。

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旺文社日本史事典 三訂版 「西周」の解説

西周
にしあまね

1829〜97
明治時代の啓蒙思想家
石見(島根県)津和野藩医の家に生まれる。蘭学を修め,蕃書調所に出仕。1862年津田真道らとオランダに留学,法学・哲学・経済学を研究し,帰国後,開成所の教授となる。'70年明治新政府の兵部省に入り,以後陸軍省,文部省,宮内省などの官僚を歴任。軍人勅諭を起草し軍人精神の確立に貢献。他方,明六社にも参加し,西洋哲学の紹介につとめた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「西周」の解説

西周(せいしゅう)

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旺文社世界史事典 三訂版 「西周」の解説

西周
せいしゅう

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世界大百科事典(旧版)内の西周の言及

【殷周美術】より

…これが策命である。しかし,西周初めの青銅器はなお殷代の様式を保っている。西周前期を代表する大盂鼎は通高102.1cm,口径78.8cm,重さ153.5kgの堂々たる円鼎で,ややくずれた饕餮文をつけ291字の長文の銘をもつ。…

【周】より

…この王朝は前771年に一度滅び,前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され,前256年第37代赧王(たんおう)のとき秦によって完全に滅ぼされる。前771年を界として,それ以前は,都が西の西安西郊にあったので西周時代,以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。周が王朝としての実力を保持していたのは西周時代であり,本項ではこの時代について述べる。…

【意識】より

…日本でも,この語は長い間そうした含蓄の仏教用語として用いられていたと思われるが,幕末以後,西洋の諸学が輸入されるにつれて,ヨーロッパ語の訳語という性格を強めながら今日に至っている。その端緒は,西周にあったと考えられる。彼はアメリカ人ヘーブンJoseph Havenの《Mental Philosophy》(1857)を翻訳して,《心理学》上下巻(1875‐79)として出版したが,それに付された〈翻訳凡例〉の中で,訳語を案出する苦心に触れながら,〈意識〉等の語については〈従来有ル所ニ従フ〉と述べている。…

【荻生徂徠】より

…同時にこの制度による人民の秩序づけの論理は〈其人ノ内面ハ如何ニト問ハズ〉とする春台学をうみ〈道〉の外面化を促した。その延長線上に〈覇道〉を積極的に説く海保青陵,さらに内外両面の峻別に立ち近代的な政教分離を説く西周が現れる。 ただし徂徠思想自体はあくまで過渡的な様相を帯びていた。…

【実学】より

…この考え方は1872年(明治5)の〈学制〉の指導理念となった。代表的な実学者としては,西周(あまね),津田真道(まみち),加藤弘之,神田孝平,福沢諭吉,箕作麟祥(りんしよう)らが数えられる。西周は健康,知識,富有の三つを人生の宝とし,市民社会的倫理を基盤とする実学を主張,津田真道は朱子学的なリゴリズムからの人間性の解放を唱え,情欲を人間性の基本とするが,知識と慣習による情欲こそ開化人特有の情欲であり,天理と人欲は相反するものでないと考えた。…

【想像力】より

…西洋の哲学思想の日本への最初の紹介者,西周は,ヘーブンJoseph Havenの《Mental Philosophy》(1857,第2版1869)を《心理学》(上・下巻,1875‐79)として上梓するに当たり,〈従来有ル所ニ従フ〉訳語の一つとしてimaginationに〈想像〉をあてている。したがって,〈想像〉の語が日本でも古くから慣用されていたことが知られるが,しかしその語は,漢籍などでは〈旧故ヲ思イテ,以テ想像ス〉(《楚辞》)などと使われ,〈おもいやり〉や〈おしはかる〉ことを意味していたようである。…

【大政奉還】より

…事実,この時点で幕府内部では新たな政権構想が検討されていた。とくに奥祐筆所詰として慶喜の側近にあった西周(あまね)は,10月13日以降,新たな政権構想に関して慶喜と密接な交渉をもち,11月に〈議題草案〉として提出した構想(図参照)は,ヨーロッパの政治形態にならっていちおう三権分立のかたちをとるが,これまでの諸大名領はそのままとし,各藩それぞれの領国内の政治を議政院の立法の範囲で認め,軍事権は当面は諸大名がもつが,数年後は〈大君〉の中央政府へ統轄されるものとしている。この〈大君〉には慶喜がなり,各事務府の人事権は〈大君〉が握り,行政府の長としての〈大君〉は,上院の議長でもあり,下院の解散権ももち,両院でくいちがいがおこったときの裁定権も一手に掌握すると規定されている。…

【知覚】より

…〈知覚〉は,日本では古来,〈知り,さとる〉という意味の語であったが,西周が,アメリカ人ヘーブンJoseph Havenの著《Mental Philosophy》(1857,第2版1869)の邦訳《心理学》上・下巻(1875‐79)の中で,perceptionの訳語として使用して以来,哲学や心理学などで英語,フランス語のperceptionやドイツ語のWahrnehmungの訳語として定着するに至った。perceptionという語は,〈完全に〉〈すっかり〉などの意を示す接頭辞perと,〈つかむ〉を意味するラテン語capereとからなる語であり(ドイツのWahrnehmungは,〈注意〉の意を有するwahr――英語のawareなどに残っている――と,〈取る,解する〉を意味するnehmenとからなっている),たいていは五感によって〈気づく〉〈わかる〉ことを意味する。…

【直観】より

…日本に初めて西洋の思想が紹介される際,intuition(英語,フランス語)の訳語には初め〈直覚〉が当てられていたが(例えば,西周《心理学》,1875‐79),それがしだいに〈直観〉にとって代わられ,今日に至っている。intuitionは,〈凝視する〉とか,ときには〈瞑想する〉といった意味を有するラテン語intueriに由来し,一般に直接的知識を意味するが,ドイツ語のAnschauungも,事物への接近・接触などを表す接頭辞anと,意志的な見る行為を意味するschauenとからなり,やはり同様の知のあり方を意味する。…

【哲学】より

…〈哲学〉という言葉は,明治初年の段階で,西周(にしあまね)によって,英語の〈フィロソフィーphilosophy〉の訳語として作られた。〈フィロソフィー〉は,ギリシア語の〈フィロソフィアphilosophia〉に由来し,〈知恵(ソフィアsophia)を愛する(フィレインphilein)〉という意味の言葉である。…

【フィセリング】より

…オランダの経済学者。1863年オランダのライデンで西周と津田真道に,治国学の基本として自然法,国際法,国法,経済学および統計学を教授したことで知られている。その講義は後に翻訳され,西周《万国公法》(1868),神田孝平《性法略》(1871),津田真道《泰西国法論》(1868)および,同《表記提綱》(1874)として公刊され,揺籃期の日本の法学・政治学に影響を及ぼした。…

【論理学】より

…またそうした〈ロジカ〉なるものが鎖国後の日本に存続したという証拠も見つかっていない。ヨーロッパ論理学の本格的な輸入は明治初年に始まるが,最初に論理学の入門書を書いたのは西周(にしあまね)であり,logicという語に対して〈論理学〉という訳語をつくったのも彼が最初である。【山下 正男】。…

※「西周」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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