幕末の長崎会所調役頭取で砲術家。名は茂敦,通称は四郎太夫,秋帆は号。長崎防備のため,はじめ荻野流砲術を学び,のち出島のオランダ人から西洋砲術を学んで,これを高島流砲術と名づけた。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。アヘン戦争が起こった1840年(天保11),幕府に上書して西洋砲術の採用を説いた。翌年幕命で出府し,徳丸ヶ原で操練を行い,名声を得た。幕府は高島流砲術を採用することとし,彼の所持する大砲を購入し,あわせて代官江川太郎左衛門に砲術の伝授を命じた。これ以後,西洋砲術は江戸では江川を中心にして普及した。他方,秋帆は幕府の守旧派勢力の忌むところとなり,ついに42年10月投獄された。しかしペリー艦隊の来航により赦免され,江川の下で鋳砲に従事し,のち56年(安政3)講武所砲術師範に挙げられ,幕府の軍事近代化に寄与した。
執筆者:佐藤 昌介
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1798~1866.1.14
幕末期の砲術家。父は茂紀。諱は茂敦。通称四郎太夫。長崎町年寄・出島台場受持として荻野流砲術を修め,のち西洋砲術を学び,高島流を創始。1840年(天保11)アヘン戦争の情報が伝わると,上書を幕府へ提出し,洋式砲術の採用を説いた。幕命により,翌年武蔵国徳丸ケ原(とくまるがはら)で洋式銃陣演練を披露し,洋式砲が採用された。流儀は幕臣の下曾根金三郎・江川太郎左衛門英竜などに伝授され,高島流興隆と洋式砲普及の基となった。しかし秋帆自身は鳥居耀蔵(ようぞう)らに嫌疑をかけられて翌年逮捕され,46年(弘化3)武蔵国岡部藩に預けられた。53年(嘉永6)ペリー来航を迎えると江川の尽力で赦免され,55年(安政2)講武所教授方頭取,57年講武所砲術師範役に任じられた。
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…おもな流派としては,津田流,自由斎流,稲富流,西村流,井上流,一火流,自得流,中島流などがある。江戸時代日本独特の発達をした砲術も,1841年(天保12)江戸の徳丸ヶ原で高島秋帆が行った洋式鉄砲の操練を契機に和流砲術は衰え,西洋砲術となり明治を迎えた。【中林 信二】。…
※「高島秋帆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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